まだまだ旧跡碑が続きます。「𦾔跡 人吉藩主相良候御対面所跡 山本家」。詳細は不明。
大きく右折する角に「岡ほっこりマップ 岡まちづくり委員会」
「ほっこり」とは、この地域の合い言葉のようです。それに因んだおまつり。
東海道 ほっこりまつりとは?
第9回 (2015年度) ほっこりまつりは、10月25日(日)に開催予定! 「ことしもやります!」
私たちの想い
何気ない一言でした。
「東海道に車が通らなかったら・・・」
いつもは通過交通が多く、安心して歩くことができない東海道。 でも本当は、歴史と文化、そして私たちの想いあふれる東海道。
この東海道をほっこりしながら、ゆっくり味わい歩いてみたい。
そんな私たちの想いから始まった、手作りのまつりです。
東海道ほっこりまつりは、岡・目川地域の歴史的景観文化を後世に継承してゆくため、また、年々増え続ける街道を旅する方々の憩える場として、「岡まちづくり委員会」「目川まちづくり委員会」が中心となった、街道に愛着をもつ住人の心ばかりのおもてなしです。
2007年(平成19年)の「第1回 東海道ほっこりまつり」から数え、今回で9回目を数えます。 年々ご来場者も増え、イベントもますます充実してきました。
(以上、「東海道ほっこりまつり実行委員会」公式HPより)
地元の、粋な試みです。道中、何しろ交通量が半端じゃなかったですから。
「足湯」。来た道を振り返る。
前方は「新幹線」のガード、左手は「(旧)草津川」。
旧草津川の土手。
「天井川」らしく、道路面よりも宅地等の地面はかなり低くなっています。
左は「新幹線」。
傍示石。従是東膳所領」。
その先の右手には、
史蹟老牛馬養生所趾
栗太郡志等に「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保12年4月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老朽馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。
右手に立て札があったので
近づいてみると「高札場跡」。「東海道小柿村 高札場 大谷」(上部に屋号)。
「東海道 小柿村 天秤棒 棒喜(ぼうき)」。
この地域ではかつての字名、村名が残っています。また、「NPO 街道をいかしたまちづくりの会」による解説板が設置されています。
いよいよ草津市に入ります。左の「(旧)草津川」土手に上がって進む道(江戸時代の「東海道」)を行こうとしましたが「通行止め」。
さてどうするか?
道しるべでは土手に上がるようになっていますが。
「わが町のシンボル いろはモミジ」。
やむを得ず「国道1号線」方向へ進みます。ここで大きなミス!
「国道1号線」を突っ切っていけば、国道の向こう側で土手に上れたのですが、「国道1号線」のトンネルをくぐってしまいました。
この上が「旧草津川」。
「国道1号線」を渡って「草津宿」側に行きましたが、西に向かう道がありません(通行止め箇所あり)。
すでに「旧草津川」は廃川となっています。
(HPより)
そのため、旧草津川跡地利用計画が進められています。特に、渋滞と危険性があった「国道1号線」の「草津川トンネル」と堤防・土手を撤去する大工事の真っ最中です。来年度中には安全で見通しの良い国道へ生まれ変わる、とか。この辺りの景観も大きく変わることになりそう。東海道歩きのコースもどうなることやら、と。そのため、「旧東海道」を残すために「歩道橋」が出来るようです。
そんなこともまったく知らなかった旅人は、しかたなく、国道脇を行ったり来たり。用水路跡のような道を見つけ、曲がりくねった、細い路地を抜けていくと、「神宮寺」脇のところで旧道に何とか出会えました。
振り返って「東海道」を望む。
左手に解説板。
草津川ずい道(トンネル)の由来
草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治17年(1884)8月24日付で中山道筋草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)中井弘あてに提出した。
これが容れられて明治18年12月4日総工事費7368円14銭9厘を以て着工された。
翌明治19年3月20日の突貫工事で完成した。
構造はアーチ式煉瓦両側石積みで長さ43.6米、幅4.5米のずい道が造られた。
同年3月22日より旅人通行の事、車は3月25日より、馬車荷車は4月5日より従来左方斜めに堤防にのぼって川を渡り大路井村側で右方へ下った。
中山道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。
左にはその時の「中山道草津砂川ズイ道開削並びニ東海道筋大路井村新道開築事業起功ノ義願書」が記されています。
さらに、広重の浮世絵と開通以後のトンネル付近の写真があります。
「広重中山道六十九次 草津」。(「Wikipedia」より)
「草津川」を徒歩で渡っているようすが描かれています。
この隧道(トンネル)の完成によって、「東海道」の道筋も変わってきます。
明治19年(1886)3月、アーチ式煉瓦両側石積で造られた旧草津川隧道(通称、まんぽ)の完成とともに、江戸時代260年余り続いた近世の東海道も一新され、現在の県道下笠大路井線の位置に新しい東海道が栗東市新屋敷までの約900m開通することとなります。これにより、従来旧草津川南側にあった東海道と中山道の分岐点は、当時、中山道に面していた覚善寺南西角に移り、明治19年3月に大路井道標が新東海道と中山道の分岐点に建てられましたが、現在は覚善寺門前に移築されています。
(「」HPより)
大路井(おちのい)道標(新東海道と中山道の分岐)
1892年(明治25年)~1910年(明治43年)のようす。(「今昔マップ」より)
上図から、江戸時代の東海道は↓のところから左へ行くルートだったようです。広い道(現「県道143号」)は明治19年以降に新設された「東海道」。左の○のところで「旧中山道」と合流しています。右の○は「目川」。
さて、道が突き当たる右側角には道しるべ、等。ここが「(江戸期の)東海道」と「中山道」(右のトンネルからの道)と合流点(分岐点)。
来た道を振り返る。
市指定文化財 道標「右東海道いせみち」「左中仙道美のじ」一基
ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化13年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかっての草津宿の名残りをとどめている。
昭和48年10月15日指定 草津市教育委員会
ここから京までは二つの街道は合わさって進みます。道路の反対側には、小ぶりですが「高札場」が復元されています。
「高札場」は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていました。
これから、草津宿の核心部に入って行きます。
「中山道」方向を望む。
大きく右折する角に「岡ほっこりマップ 岡まちづくり委員会」
「ほっこり」とは、この地域の合い言葉のようです。それに因んだおまつり。
東海道 ほっこりまつりとは?
第9回 (2015年度) ほっこりまつりは、10月25日(日)に開催予定! 「ことしもやります!」
私たちの想い
何気ない一言でした。
「東海道に車が通らなかったら・・・」
いつもは通過交通が多く、安心して歩くことができない東海道。 でも本当は、歴史と文化、そして私たちの想いあふれる東海道。
この東海道をほっこりしながら、ゆっくり味わい歩いてみたい。
そんな私たちの想いから始まった、手作りのまつりです。
東海道ほっこりまつりは、岡・目川地域の歴史的景観文化を後世に継承してゆくため、また、年々増え続ける街道を旅する方々の憩える場として、「岡まちづくり委員会」「目川まちづくり委員会」が中心となった、街道に愛着をもつ住人の心ばかりのおもてなしです。
2007年(平成19年)の「第1回 東海道ほっこりまつり」から数え、今回で9回目を数えます。 年々ご来場者も増え、イベントもますます充実してきました。
(以上、「東海道ほっこりまつり実行委員会」公式HPより)
地元の、粋な試みです。道中、何しろ交通量が半端じゃなかったですから。
「足湯」。来た道を振り返る。
前方は「新幹線」のガード、左手は「(旧)草津川」。
旧草津川の土手。
「天井川」らしく、道路面よりも宅地等の地面はかなり低くなっています。
左は「新幹線」。
傍示石。従是東膳所領」。
その先の右手には、
史蹟老牛馬養生所趾
栗太郡志等に「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保12年4月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老朽馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。
右手に立て札があったので
近づいてみると「高札場跡」。「東海道小柿村 高札場 大谷」(上部に屋号)。
「東海道 小柿村 天秤棒 棒喜(ぼうき)」。
この地域ではかつての字名、村名が残っています。また、「NPO 街道をいかしたまちづくりの会」による解説板が設置されています。
いよいよ草津市に入ります。左の「(旧)草津川」土手に上がって進む道(江戸時代の「東海道」)を行こうとしましたが「通行止め」。
さてどうするか?
道しるべでは土手に上がるようになっていますが。
「わが町のシンボル いろはモミジ」。
やむを得ず「国道1号線」方向へ進みます。ここで大きなミス!
「国道1号線」を突っ切っていけば、国道の向こう側で土手に上れたのですが、「国道1号線」のトンネルをくぐってしまいました。
この上が「旧草津川」。
「国道1号線」を渡って「草津宿」側に行きましたが、西に向かう道がありません(通行止め箇所あり)。
すでに「旧草津川」は廃川となっています。
(HPより)
そのため、旧草津川跡地利用計画が進められています。特に、渋滞と危険性があった「国道1号線」の「草津川トンネル」と堤防・土手を撤去する大工事の真っ最中です。来年度中には安全で見通しの良い国道へ生まれ変わる、とか。この辺りの景観も大きく変わることになりそう。東海道歩きのコースもどうなることやら、と。そのため、「旧東海道」を残すために「歩道橋」が出来るようです。
そんなこともまったく知らなかった旅人は、しかたなく、国道脇を行ったり来たり。用水路跡のような道を見つけ、曲がりくねった、細い路地を抜けていくと、「神宮寺」脇のところで旧道に何とか出会えました。
振り返って「東海道」を望む。
左手に解説板。
草津川ずい道(トンネル)の由来
草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治17年(1884)8月24日付で中山道筋草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)中井弘あてに提出した。
これが容れられて明治18年12月4日総工事費7368円14銭9厘を以て着工された。
翌明治19年3月20日の突貫工事で完成した。
構造はアーチ式煉瓦両側石積みで長さ43.6米、幅4.5米のずい道が造られた。
同年3月22日より旅人通行の事、車は3月25日より、馬車荷車は4月5日より従来左方斜めに堤防にのぼって川を渡り大路井村側で右方へ下った。
中山道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。
左にはその時の「中山道草津砂川ズイ道開削並びニ東海道筋大路井村新道開築事業起功ノ義願書」が記されています。
さらに、広重の浮世絵と開通以後のトンネル付近の写真があります。
「広重中山道六十九次 草津」。(「Wikipedia」より)
「草津川」を徒歩で渡っているようすが描かれています。
この隧道(トンネル)の完成によって、「東海道」の道筋も変わってきます。
明治19年(1886)3月、アーチ式煉瓦両側石積で造られた旧草津川隧道(通称、まんぽ)の完成とともに、江戸時代260年余り続いた近世の東海道も一新され、現在の県道下笠大路井線の位置に新しい東海道が栗東市新屋敷までの約900m開通することとなります。これにより、従来旧草津川南側にあった東海道と中山道の分岐点は、当時、中山道に面していた覚善寺南西角に移り、明治19年3月に大路井道標が新東海道と中山道の分岐点に建てられましたが、現在は覚善寺門前に移築されています。
(「」HPより)
大路井(おちのい)道標(新東海道と中山道の分岐)
1892年(明治25年)~1910年(明治43年)のようす。(「今昔マップ」より)
上図から、江戸時代の東海道は↓のところから左へ行くルートだったようです。広い道(現「県道143号」)は明治19年以降に新設された「東海道」。左の○のところで「旧中山道」と合流しています。右の○は「目川」。
さて、道が突き当たる右側角には道しるべ、等。ここが「(江戸期の)東海道」と「中山道」(右のトンネルからの道)と合流点(分岐点)。
来た道を振り返る。
市指定文化財 道標「右東海道いせみち」「左中仙道美のじ」一基
ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化13年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかっての草津宿の名残りをとどめている。
昭和48年10月15日指定 草津市教育委員会
ここから京までは二つの街道は合わさって進みます。道路の反対側には、小ぶりですが「高札場」が復元されています。
「高札場」は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていました。
これから、草津宿の核心部に入って行きます。
「中山道」方向を望む。
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