「旧草津川隧道(トンネル)」(明治19年完成)の扁額。
草津宿のメインストリート。道は南西に向かいます。
「草津市民センター」前にある石碑、解説板。
近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき 覧富士記
将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。
◎ 作者紹介 覧富士記 堯孝法師 (1390~1455)
この歌は『覧富士記』に収められており、堯孝法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永21年(1414)には二条派の中心歌人であった。正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享4年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。堯孝法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された。
草津歴史街道 東海道
東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。
草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3㎞)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。
また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。
草津市教育委員会
「草津本陣」。残念ながら休館日です。
正面には「細川越中守宿」宿札。
宿札の掲揚(復元)
大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5メートル)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。
大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。
草津宿
東海道五十三次のうち、江戸より数えて52番目の宿場町で、東海道と中山道が分岐・合流している交通の要衝でした。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると草津宿には、田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の2軒の本陣、2軒の脇本陣、72軒の旅籠がありました。(脇本陣、旅籠の数は時代によって変化します)
また、草津宿は中山道と東海道の分岐点で、その分かれ目に追分道標が立っています。(草津宿本陣からは歩いて1分程です)道標の上部にある現在の火袋は木製ですが、文政4年(1821)頃につくられた「栗太志」によると、当時は銅製であったと記されており、大変立派なものであったことが分かります。
草津宿本陣
「本陣」とは本来、戦の際に軍の総大将のいる本営のことを指していましたが、休泊施設としての起源は、室町幕府の二代将軍足利義詮が上洛に際して、その旅宿を本陣と称し宿札を掲げたことに求められます。そして江戸時代には街道を往来する大名や公家等、貴人の休泊施設を指すようになりました。
ここ草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。また、いつの頃からか材木商も営む様になり、田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていました。
本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていましたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定されました。現在、全国に残る本陣の中でも最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えています。
(以上、「」HPより)
「本陣」全景。左に照れくさそうな「飛び出し」坊や。
古い家並み。お店が多い。
お店の脇に「脇本陣跡」碑。
「飛び出し」坊やが後ろ向きなのは「一方通行」の通りだから。
昔と今とが混在する家並み。
その先には「草津宿がわかる歴史館」。ここも休館日。
その先、左手には、太田道灌が遠祖という「太田酒造」という酒蔵があります。
「道灌」という酒樽。
「草津宿と政所」。
草津宿は東海道53次の中でも大宿で、水陸交通の要所でもあることから、関所的な役割を担ってきました。
草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場がありました。併せて東海道筋では3ヵ所しか置かれていなかった荷物などの重量検査を行う貫目改所も設置されていたので太田家を中心とするこの付近は、草津の政所(まんどころ)といわれた所以です。
太田酒造 道灌蔵(おおたしゅぞう どうかんぐら)
江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、海道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。
太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のこと。当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる良質の近江米を有効活用するため酒造りを始めたといわれています。以後酒造りを生業として発展。今日まで人々に愛される美酒を世の中に送り続けています。
旧東海道 草津宿に趣のある佇まいを見せる道灌蔵は見学・試飲が行えますので是非お立ち寄り下さい。
(「滋賀・びわ湖観光情報」HPより)
今回は、ここまで。「草津川トンネル」まで戻り、アーケード街を進み、左折してJR「草津駅」。「ちゃんぽん亭総本家 草津駅前店」で「生ビール」と「近江ちゃんぽん」でお疲れ様!
「草津」から再び「京都」に戻り、帰京。
次回は京・三条大橋まで。日没も早くなるので、二日がかりか? ・・・。見所はたくさんありそうですので、余裕を持った日程にしましょう。
残る宿場は、53番目の宿場、大津宿。
「左中山道 右東海道」。
草津宿のメインストリート。道は南西に向かいます。
「草津市民センター」前にある石碑、解説板。
近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき 覧富士記
将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。
◎ 作者紹介 覧富士記 堯孝法師 (1390~1455)
この歌は『覧富士記』に収められており、堯孝法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永21年(1414)には二条派の中心歌人であった。正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享4年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。堯孝法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された。
草津歴史街道 東海道
東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。
草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3㎞)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。
また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。
草津市教育委員会
「草津本陣」。残念ながら休館日です。
正面には「細川越中守宿」宿札。
宿札の掲揚(復元)
大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5メートル)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。
大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。
草津宿
東海道五十三次のうち、江戸より数えて52番目の宿場町で、東海道と中山道が分岐・合流している交通の要衝でした。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると草津宿には、田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の2軒の本陣、2軒の脇本陣、72軒の旅籠がありました。(脇本陣、旅籠の数は時代によって変化します)
また、草津宿は中山道と東海道の分岐点で、その分かれ目に追分道標が立っています。(草津宿本陣からは歩いて1分程です)道標の上部にある現在の火袋は木製ですが、文政4年(1821)頃につくられた「栗太志」によると、当時は銅製であったと記されており、大変立派なものであったことが分かります。
草津宿本陣
「本陣」とは本来、戦の際に軍の総大将のいる本営のことを指していましたが、休泊施設としての起源は、室町幕府の二代将軍足利義詮が上洛に際して、その旅宿を本陣と称し宿札を掲げたことに求められます。そして江戸時代には街道を往来する大名や公家等、貴人の休泊施設を指すようになりました。
ここ草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。また、いつの頃からか材木商も営む様になり、田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていました。
本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていましたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定されました。現在、全国に残る本陣の中でも最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えています。
(以上、「」HPより)
「本陣」全景。左に照れくさそうな「飛び出し」坊や。
古い家並み。お店が多い。
お店の脇に「脇本陣跡」碑。
「飛び出し」坊やが後ろ向きなのは「一方通行」の通りだから。
昔と今とが混在する家並み。
その先には「草津宿がわかる歴史館」。ここも休館日。
その先、左手には、太田道灌が遠祖という「太田酒造」という酒蔵があります。
「道灌」という酒樽。
「草津宿と政所」。
草津宿は東海道53次の中でも大宿で、水陸交通の要所でもあることから、関所的な役割を担ってきました。
草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場がありました。併せて東海道筋では3ヵ所しか置かれていなかった荷物などの重量検査を行う貫目改所も設置されていたので太田家を中心とするこの付近は、草津の政所(まんどころ)といわれた所以です。
太田酒造 道灌蔵(おおたしゅぞう どうかんぐら)
江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、海道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。
太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のこと。当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる良質の近江米を有効活用するため酒造りを始めたといわれています。以後酒造りを生業として発展。今日まで人々に愛される美酒を世の中に送り続けています。
旧東海道 草津宿に趣のある佇まいを見せる道灌蔵は見学・試飲が行えますので是非お立ち寄り下さい。
(「滋賀・びわ湖観光情報」HPより)
今回は、ここまで。「草津川トンネル」まで戻り、アーケード街を進み、左折してJR「草津駅」。「ちゃんぽん亭総本家 草津駅前店」で「生ビール」と「近江ちゃんぽん」でお疲れ様!
「草津」から再び「京都」に戻り、帰京。
次回は京・三条大橋まで。日没も早くなるので、二日がかりか? ・・・。見所はたくさんありそうですので、余裕を持った日程にしましょう。
残る宿場は、53番目の宿場、大津宿。
「左中山道 右東海道」。
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