おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成上野駅~青砥駅。その5。「山吹の花一枝」像。日暮里舎人ライナー。藍染川。

2020-06-09 20:53:39 | 沿線歩き

                   「山吹の花一枝」像。太田道灌像に対面する女性の像。

荒川区HPより)
2018年5月23日 · 
【山吹の里伝説・日暮里に銅像~「山吹の花一枝」像 除幕式~】
 平成30年5月23日(水曜)、JR日暮里駅前広場において、平野千里(ひらの・せんり)氏作「山吹の花一枝」(やまぶきのはないっし)像の除幕式が行われました。
 これは、東京荒川ライオンズクラブ設立55周年を記念して、同クラブが荒川区に寄贈したものです。「山吹の花一枝」像が、30年前にも設立25周年を記念して区に寄贈された太田道灌(おおた・どうかん)騎馬像「回天一枝」(かいてんいっし)の近くに設置されたことで、山吹の里伝説にちなんだ像2体が並び立つことになりました。
 「山吹の花一枝」像は、日暮里の地ゆかりの武将・太田道灌の山吹の里伝説にちなんで制作されたもので、太田道灌が鷹狩の途中で急な雨にあい蓑を借りるために立ち寄った農家で、出てきた娘が蓑がないことを山吹の一枝を差し出して伝えたというものです。 また、今回の銅像制作は、荒川区顧問であり、日本を代表する彫刻家の平野千里氏の手によるもので、区内ではJR南千住駅前に立つ松尾芭蕉像も平野氏の作品です。

日暮里駅前にある「太田道灌像」。 

若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話があります。

ここで「落語」を紹介。

道灌 (落語) 
あらすじ
「岩田のご隠居」宅に遊びに来た八五郎は、隠居に張りまぜ(=複数の絵を貼った)の屏風を見せてもらう。八五郎は絵のひとつについて、「シイタケの親方みてェな帽子かぶって、虎の皮のモモヒキ履いて突っ立ってるあれは誰です?」とたずねる。それは太田道灌の「山吹の里」の伝説を描いたものであった。隠居は以下のような道灌の逸話を語る。 
室町時代中期の武人・道灌は、狩りをしている最中に村雨に遭い、雨具を借りようと1軒のあばら家に立ち寄った。15歳くらいの少女が出てきて、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ山吹の枝を盆に乗せて差し出し、頭を下げた。道灌が意味をつかみかねていると、家来のひとりが「『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』という古歌がございます(後拾遺和歌集・兼明親王作)。これは『実の』と『蓑(みの)』をかけ、『お出しできる雨具はございません』という断りでございましょう」と進言した。これを聞いた道灌は「ああ、余はまだ歌道(かどう)に暗いのう」と嘆き、それ以来和歌に励み、歌人として知られるようになった。 
これを聞いた八五郎は「うちにもよく傘を借りに来る男がいる。ひとつその歌で追っ払ってやろう」と思いつき、歌を仮名で隠居に写してもらって帰宅する。ほどなくして雨が降り出し、その男が飛び込んでくる。からかうチャンスがやって来たと感じた八五郎は内心で喜ぶが、男はすでに傘を持っていて、「提灯を貸してほしい」と八五郎に頼む。雨具でなければ「蓑ひとつだに」ができないため、八五郎は困り、「『雨具を貸してください』と言やァ、提灯を貸してやらァ」と男に告げる。男がしかたなく「雨具を貸してくれ」と言うと、八五郎は少女を演じ、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ、歌が書かれた紙を差し出した。男はそれを「ナナヘヤヘ、ハナハサケドモ、ヤマブシノ、ミソヒトダルト、ナベトカマシキ」とつかえながら読み、「短(みじ)けェ都々逸だな」と感想を漏らす。八五郎が「都々逸う? おめえ、よっぽど歌道が暗(くれ)ェなァ」とからかうと男は、 
「カド(=角)が暗ェから、提灯借りに来た」

(この項、「Wikipedia」参照)

右の頭上に「日暮里舎人ライナー」。

 

京成の日暮里駅も大改造されています。成田空港まで「スカイライナー」が発着します。変則的な駅の構造ですが。

「ひぐらしの里」とある。

駅前も大きく様変わり。高層ビルが建ち並んでいます。

高架線に沿って、「新三河島」駅に向かいます。

                        

駅方向を振り返る。「音無川」跡の道。

JR常磐線。

頭上が京成線。

その上に「日暮里舎人ライナー」。正面奥が西日暮里駅付近。

京成線の高架脇を進みます。

JR貨物線の踏切を渡ります。

と「藍染川西通り」との表示が。

ここから町屋駅の先までかつて流れていた「藍染川」跡の道路を進むことに。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京成上野駅~青砥駅。その4。羽二重団子。芋坂。正岡子規。音無川。日暮里。

2020-06-08 20:43:53 | 沿線歩き

                  羽二重団子」。

「団子の由来」解説板。

芋坂も団子も  月のゆかりかな  子規

 江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は、音無川のせゝらぎと小粋な根岸の三味の音もきこえる塵外の小天地でありました。 文政2年小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。この団子はきめが細かく羽二重のようだと称され、そのまゝ商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を受け継いでおります。

 

                「子規の句碑」。
              芋坂も団子も月のゆかりかな

角に「王子街道」という道標。「音無川」が王子から流れてきているという証。

「羽二重団子」脇の「芋坂」。

「芋坂」から通りを望む。

羽二重団子(はぶたえだんご)は東京都荒川区にある株式会社羽二重団子が製造販売している団子。
 きめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来で、そのまま名前となった。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類が売られている。串団子であるが、粒の形が一般的な球形ではなく厚みのある円盤状なのが特徴的。
 文政2年(1819年)、初代 庄五郎が「藤の木茶屋」を武蔵野国谷中本村字居村(現在地 東京都荒川区西日暮里 付近) に開く。当初の品名は「大だんご」であった。 のちに団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、慶応4年の二代目庄五郎の頃には菓子名「羽二重だんご」、屋号も「羽二重団子」となっている。(以上、「Wikipedia」より。)

 以下、「羽二重団子」HPより。

●江戸の昔より、日暮しの里・呉竹の根岸の里といえば、音無川の清流にそうた塵外の小天地として知られました。花に鶯、流れに河鹿、眼には遥かな荒川の風光にも恵まれて、人々は競ってこの智に別荘を設けました。くだって明治大正の頃まで、粋で風雅な住宅地として憧れの土地柄でありました。
●文政二年、小店の初代庄五郎が、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しました。この団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。こうして創業以来六代百八十年、今も江戸の風味と面影をうけ継いでいるのでございます。
●団子というものは、そもそもは中国渡来の野趣ある菓子でありましたが、江戸時代に入って普及したものです。ことに元禄年間には名物団子が随所に現れ、流行になりました。けれども今日では、昔からの名ある団子が都内ではほとんど見られなくなりましたことは、いささか心さびしいことです。
●羽二重団子は、その光沢と粘りとシコシコした歯ざわりが身上です。よく吟味した米の粉を搗抜いて、丸めて扁たく串にさします。昔ながらの生醤油の焼き団子と、渋抜き漉し餡団子の二種類を商っております。材料の吟味に製法に、家伝に即した苦心を怠らず、いまの東京に類をみない古風な団子をご賞味いただけるのも、代々のご愛顧のたまもの、商売冥利と存じております。

 

「芋坂」の説明板。

 芋坂
 善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。坂名の由来は未詳。明治15年ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が、失われてしまった。伊藤晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は天王寺の五重塔を望む芋坂の、のどかなたたずまいをよくあらわしている。   荒川区教育委員会

1880年代のようす。

上の赤丸が善性寺、下の大きな赤丸が芋坂と思われる。

2010年代のようす。

左上が「日暮里駅」。カーブしながらJR線を越えていくのが京成線。芋坂は跨線橋として存在(中央付近)。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「芋坂」とこの付近は、2013年9月に訪れています。その時の投稿。

「芋坂」の説明板。

慶応4年(1868年)、上野の山での官軍との戦いに敗れた「彰義隊」が「芋坂」を逃げ落ちて行った、と。


「芋坂跨線橋」。JR線に架かる歩道橋。

芋坂跨線橋からスカイツリーを望む。

渡りきった谷中側にある説明碑。「芋坂」。
 坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前に通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が、「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
 坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因んだという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
   芋坂も團子も月のゆかりかな 子規

「正岡子規と当店」。

 子規居士が上根岸町82番地に居を構えたのが明治25年である。爾来、亡くなる明治25年までの十年間随分とご愛顧を頂いたと当店四代目は伝える。
 『仰臥漫録』から明治34年9月4日の日記を抜粋すると「芋坂団子を買い来たらしむ(これに付き悶着あり)あん付き二本焼き一本を食う」とある。多分悶着とは妹の律さんと当店の団子のことで言い争いがあったのであろう。旺盛な食欲が日記から推察でき、死を目前にした子規居士の人間味を彷彿とさせる。
観月会
芋坂の団子の起こり尋ねけり
根岸名所の内
芋坂の団子屋寝たりけふの月
短歌会第四会
芋坂の団子売る店にぎはひて
 団子くふ人団子もむ人
俳諧稿巻一より
子規歌集より

 他にHPでは次の俳句も紹介されている。
芋阪に名物の團子あり
名物や月の根岸の串團子
秋昔三十年の團子店

「将軍橋と芋坂(善性寺)」の説明板。

 善性寺は日蓮宗の寺院で長享4年(1487)の開創と伝える。・・・宝永年間(1704~1711)、(六代将軍徳川)家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政2年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の羽二重団子)がある。芋坂も団子も月のゆかりかな 子規 

門前の通り。音無川跡の道。根岸方向を望む。

「東京消防庁荒川消防署音無川出張所」。
消防車。表示が「音無川」となっている(○のところ)。

「日暮里駅」前より音無川跡(来た道)を振り返る。久々にやってきて、大きく変貌した駅前のようすにびっくり! かつては安い大衆酒場があったり、ラーメン屋があったり、と雑然とした町並みだった。

 日暮里から王子までは音無川跡もJR敷地内だったり不明だったりで、跡をたどるのはここまで。ただし、駅前から西日暮里駅に向かう蛇行した道が「音無川」跡のようです。

・・・以下今回。

日暮里駅方向に進みます。

日暮里駅前の通り。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京成上野駅~青砥駅。その3。「寛永寺」。「寛永寺坂駅」跡。「東臺門」。

2020-06-05 20:53:33 | 沿線歩き

             「区立上野中学校」前の通り。京成線はこの道路下を通り、上野の山を下ります。

その手前で直進して、右折すると寛永寺の大きな霊園。通りに面したところに、「厳有院殿(徳川家綱)霊廟勅額門」。

 江戸幕府第4代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝8年(1680)4月8日に39才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの難を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。(以上、台東区の解説板より) 

多くの建物が消失しているのが分かります。

歩いていると、下から電車の通過音が。

寛永寺」。葵のご紋。

おしゃれなバス。

台東区循環バス「めぐりん」は、台東区内を循環するコミュニテイバスで、「北めぐりん(浅草回り)」「北めぐりん(根岸回り)」「南めぐりん」「東西めぐりん」「ぐるーりめぐりん」の5路線が運行しています。皆様のご乗車をお待ちしております。

(この項、「」HPより)

「言問通り」にぶつかります。京成線は、この先で、左斜めに進んで行きます。

              

↓が地上に出る京成線。

「言問通り」に面して「寛永寺坂」駅がありました。現在は、地上部分は、コンビニになっています。

           

以前訪れた時には、倉庫会社があって、社屋がかつての駅舎を流用していました。その時の投稿記事と写真(2012年5月)。

寛永寺坂駅跡。右手は言問通りに面している。駅舎がそのまま使われている。

 寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
 駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。
「国旗掲揚塔」跡。コンクリートの土台部分が残っている。それによれば、紀元2600年・昭和16年12月8日(時あたかも、真珠湾攻撃の日)に建立となっている。まさにそこにも記されているように「国威発揚」の時代であった。

・・・

2012年に訪問した時は、まだ当時の駅舎の原型が保たれていました。コンビニになってすっかり様変わり。当時あった「国旗掲揚塔」跡も既に無くなっているのでしょうか? 駅前広場は、現在、駐車場として残っているようです。

「谷中霊園」への道。

開口部。トンネルの上は、すぐそばから民家が建ち並んでいる。

 ここに掲げられている扁額。 揮毫は京成電気軌道の創立者、本多貞次郎によるもの。右から左に「東臺門」と刻まれています。 トンネルの入口であることからの命名。

「臺」=「台」。

「日暮里駅」方向を望む。

「言問通り・寛永寺陸橋」を渡り、日暮里側へ。

この先、「羽二重団子」から日暮里駅と続きます。途中のお店。

頭上が京成線。

           右の高架線が京成線、左がJR線。奥が「京成日暮里」駅

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京成上野駅~青砥駅。その2。「旧博物館動物園」駅。「黒田記念館」。旧帝国図書館。

2020-06-04 21:01:19 | 沿線歩き

                     「旧博物館動物園」駅。

さて、元の道に戻って。「博物館動物園」駅はすでに廃駅となっています。このブログでも取り上げたことがあります。

以下、2012年5月投稿

「博物館動物園駅」。1933(昭和8)年、上野駅まで京成本線が開通したのに合わせ、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、東京科學博物館、恩賜上野動物園や東京音樂學校・東京美術學校(現在の東京芸術大学)などの最寄り駅として開業した。しかし、老朽化や乗降客数の減少のため、1997(平成9)年に営業休止、2004(平成16)年に廃止となった。廃止後も駅舎やホームは現存する。
 相対式ホームで、上下線で互い違いにホームが設置されていた。改札口は上りホーム側に設置されていた。地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館の敷地内と上野動物園旧正門へ続く2か所があった。
 前者は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古く、営業休止時まで供用されていた。後者は、昭和40年代に現行の動物園正門が開設されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。
 地下の壁面には東京芸術大学の学生が描いたとされる「ペンギン」「ゾウ」の絵画がある。最後まで木製の改札ラッチが使われていた。大規模な改修を受けなかったため、昭和初期のレトロな雰囲気を色濃く残していた。また、自動券売機が設置されなかったため、当駅発行の乗車券は駅員による手売りであった。 
 ホームや通路は薄暗く、壁はむき出しのコンクリート、さらには戦前、戦中、戦後にかけての長い営みを経てところどころで煤けていた。改札からホームへ向かう階段の途中にトイレが設置されていた。
 当駅の休止にあたって、「記念乗車券(ありがとう博物館動物園駅 営業休止記念乗車券)」が発売され、5枚セットの各硬券乗車券には、ホームや改札、ペンギンの絵画など、当駅の特徴あるイメージが添えられていた。
 休止・廃止された理由として、ホームの有効長が短いため、京成では最も短い4両編成しか停車することができず、その4両編成でさえも先頭車両の端の部分はホームからはみ出している状態だった。はみ出ている部分には列車と壁の隙間に台を設置して対応していたが、このことが安全面で問題になっていた。
1981(昭和56)年以降、普通列車の一部が6両編成になったことで停車する列車本数が減り、乗降客の多くが南隣の本線の終着駅・京成上野駅を利用するようになった。同駅からの距離は0.9kmと近い。
 休止直前は営業時間が7時台から18時台までで、1時間に1本も列車が停車しない時間帯があった。駅員は一人勤務であり、駅員の休憩時間確保のためにこのようにしていた。さらに、開業以来本格的な修繕がなされていないため、老朽化が進んでいた。自動券売機や自動改札機が設置されておらず、改修や維持に大規模な投資が必要だった。
 乗降客数が最も多かったのは、1972(昭和47)年に中国からジャイアント・パンダが上野動物園に来園し、その後に起こったパンダブームの頃と言われる。
 現在、駅舎(地上部分)である西洋式建物の地上口には、廃止となってから「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」のレリーフが掲示された。この地上口は扉こそ閉じられているが、休止前と変わらない。
 地下施設のホームや改札も休止前の状態を保っており、列車が通過する際のわずかの間に見ることができる。上下線とも進行方向左側を眺めていると、地下道、地上への階段、案内表示などがそのままであるのがわかる。非常灯が点灯しているが暗めである。
 1991(平成3)年頃から「上野の杜芸術フォーラム」(2003年よりNPO法人)を中心に「M in M」(Museum in Metro)と称し、西洋式建物を含めた地下施設の保存・再生を提案している。なお、営業休止以降も西洋式建物については定期的にクリーニングを行っている。また、毎年9月から10月頃にかけてこの界隈で開催されるイベント「art-Link 上野 - 谷中」にも度々当駅を利用した企画が行われている。
1995,1996年の3月には、駅構内をアート空間として照明・音響・映像などの演出を試みる『光と音のインスタレーション』というイベントが催された。
2010(平成22)年12月から駅舎取り付けの照明灯が復元された。電球はLEDのものを使用している。
                                                (以上、「Wikipedia」参照) 

 子どもの頃、親に連れられて、あるいは小学校の遠足で、上野動物園や博物館に行くのに利用した記憶があります。上の記事のように、薄暗く、何だか空気が淀んだような臭いがして、子供心にもあまり利用したくない駅でした。長じてからは利用した経験がありません。上野駅の方で降りた、というよりも動物園などにも行かなくなったということでしょうか。
 帰りの電車。出発して右に左にカーブを繰り返し、スピードを出し始め、あっという間の通過ですが、ホームがはっきりと見えました。明かりが灯されて黄色の柱、壁も見えたような・・・。

「下り線ホーム」。

京成電車。かつて走っていた電車の色調。今も4両編成。

・・・

注:現在は、4両編成の電車は走っていない、と思います。 なお、今年の2月の土曜・日曜・祝日を中心に、一般公開をしたようです。

すぐそばにある「旧東京音楽学校奏楽堂」。

「滝廉太郎」像もこの一画にあります。

案内図。

↓が京成線(地下)。○が大きく左に折れるところ。

案内銅板」。なかなか見事です。

 さて、地下を走る京成線を地上からたどっていきます。

黒田記念館」。

 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13(1924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3(1928)年に竣工したのが黒田記念館です。館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和5(1930)年には、同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきました。 
 平成12(2000)年の新庁舎の竣工により、東京文化財研究所の全ての業務が新庁舎に移ったのに伴い、黒田記念館が昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとなりました。そこで、2階部分を中心に改修が行われ、平成13(2001)年9月に開館、平成14(2002)年には国の登録有形文化財となっています。 
 平成19(2007)年4月1日には独立行政法人文化財研究所と独立行政法人国立博物館が統合し、新たに独立行政法人国立文化財機構が設置されました。これにともなう組織改編により、黒田記念館は東京国立博物館に移管されました。 
 平成24(2012)年4月からは、耐震補強を中心とした改修工事のため閉館していましたが、平成27(2015)年1月2日にリニューアルオープンいたしました。

 

注:赤い線が地下を走る京成電車の路線。

(この項、「」HPより)

国立国会図書館 国際子ども図書館」。

 「国際子ども図書館」に使用されている「旧帝国図書館」はルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作のひとつで、久留正道により設計され、東京都選定歴史的建造物に選定されている。旧帝国図書館は1906年竣工の第一期工事と1929年竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリートである。 
 この建物は国際子ども図書館に転用されるにあたり安藤忠雄建築研究所と日建設計により設計、鴻池組により改修が行われ、2002年に完成、全面開館した。改修においては歴史的建造物の保存と再生、現代の施設としての活用が掲げられ、外装、内装は旧態を残すよう極力保全するとともに、徹底的に補修、復元を施した。復元は古写真を利用したシャンデリアの模造復元にまで及んでいる。歴史的建造物の保全という方針も徹底しており、室内でも床を本来の床板より数十cm上にパネルで底上げし、パネルと本来の床の間の空間に空調ダクトや照明ケーブルなどを通している。 
 また、旧態の復元・保存と現代の施設としての機能を両立させるため公道のある側とは反対の西側壁面をガラスのカーテンウォールで覆い、旧西側外壁の外側に張り出すように箱型の建造物を増築した。箱型増築部分は旧建造物では階段や回廊が狭かった問題を、外側に大型のラウンジを付け足すことによって解消し、またエレベーターや空調などの近代設備を歴史的建造物を傷つけることなく設置した。加えて東西を貫く形で一階建てのガラスボックス建造物を張り出させ、公道側の東にエントランス、中庭側の西にカフェテリアを新設した。 
 この改修は高い評価を受け、第45回BCS賞(建築業協会賞、2004年)、第15回BELCA賞(建築・設備維持保全推進協会賞、2006年)を受賞した。週二回行われる国際子ども図書館の見学ツアーのうちの木曜日の14時から行われる回は、建物の特徴、由来に絞って説明が行われている。 

(この項、「Wikipedia」参照)

 

右 小泉八雲記念碑
先生原名ハらふかぢお・へるん英国ノ人西紀千八百五十年地中海ノれふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
 昭和10年(1935)6月

かなり重厚な趣で、存在感のある建築です。はじめて知りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京成上野駅~青砥駅。その1。京成上野駅。上野のお山の散歩。お化け燈籠。野口英世像。

2020-06-03 20:07:06 | 沿線歩き

    5月24日(日)。晴れ。外国人観光客用の宣伝も、心なしか元気なさそうな日曜日の午前。

 今回は京成上野駅から青砥駅まで。「京成本線」。

 京成上野→日暮里→新三河島→町屋→千住大橋→関屋→堀切菖蒲園→お花茶屋→青砥

 上野と日暮里の間には、廃駅となった「博物館動物園、「寛永寺坂」がありました。その現状も含めて。

暑い一日でした。しかし、自粛解除前のため、上野公園は、動物園も博物館も閉鎖されていて、ほとんど人出もなく、親子連れや散歩する地元の方などが目立ちます。こういう人通りの少なさは、今後、滅多にないでしょう。

京成上野駅 

 京成は都心側ターミナルとして上野乗り入れの免許を持っていた筑波高速度電気鉄道を買収し、その免許を利用して当駅へ延伸を行うこととなった。 
 上野公園地下線建設時の条件として、もともと上野恩賜公園が御料地から1924年、当時東京市に払い下げられたものであり、「公園の樹木、特に桜の根を損傷してはならない。寛永寺などの建造物に影響を及ぼしてはならない」などの厳しい条件を付けられた。後年行われた大規模改良工事の時も公園の環境保全には特に注意が払われていた。 
 太平洋戦争末期に陸運統制令による強制収用で当駅 - 日暮里駅間の営業を休止し、下り線を三線軌条化した上で地下線内に国鉄車両を搬入して指令設備などが置かれたが、実際にはあまり使用されなかったようである。また、上野駅構内を軍需工場に転用するための検討が行われ、機材の配置図面作成や条件交渉が行われているうちに終戦を迎えたという。

1929年(昭和4年)2月12日 - 筑波高速度電気鉄道が免許を取得。
1930年(昭和5年)10月15日 - 筑波高速度電気鉄道が京成電気軌道(現・京成電鉄)と合併。
1933年(昭和8年)12月10日 - 「上野公園駅」として開業。
1953年(昭和28年)5月1日 - 「京成上野駅」に改称。
1972年(昭和47年)10月25日 - 「スカイライナー」運行開始に伴う大規模改良工事を開始。
2019年(平成31年)3月19日 - リニューアル工事が完了。

 地上への出入口は、東日本旅客鉄道(JR東日本)上野駅および上野公園(西郷銅像付近)の入口に近い正面口と、池之端口(2か所)の計3か所が存在している。また改札外地下通路を通じ、中央通りを隔てて対面にあるヨドバシカメラ マルチメディア上野店にも、当駅連絡通路としてアメヤ横丁方面出口が設定されており、店内地下1階を経由して連絡している(始発から22時まで)。 
  開業時の駅本屋は、現在の当駅正面口から中央通りを隔てて対面になる位置に建設され、「京成聚楽ビル」「上野京成ビル」等の名称があった。大日本食堂(現:聚楽)の運営する飲食店が入居していたが、戦後は京成電鉄本社として機能し、その後1969年から1977年まで「上野京成ホテル」として使用された。末期にはヨドバシカメラ上野駅前店や飲食店等のテナントが入居し、ビル内の駅出入口も「アメ横口」として残されていたが、老朽化に伴い2006年に解体された。跡地にはヨドバシカメラのビルが建設され、ヨドバシカメラ マルチメディア上野店となっている。上野中央通り地下通路が完成してからは、同通路を通じてビル地下1階に連絡している。 

(以上、「Wikipedia」参照)

  当時の京成上野駅。地下駅特有の天井が煤けて薄暗く、得体の知れない臭いも漂ってきて、あまり印象がよくありませんでした。帝都営団地下鉄(現東京メトロ)銀座線の駅などもほぼそんなようでしたが。充分な空調設備などはなかった時代だったのでしょう。子供の頃の印象では薄暗く、独特のにおいが漂っていたような。地下道には床屋さんとか飲み屋さんがあった、と。そんな上野駅ですが、今は、外国人観光客の利用者も増えて、こぎれいな駅に様変わりしています。今はまだ、ほとんど外国人の姿は見かけませんが。

 さて、地上に出て、上野公園内を。

緑も濃くなった上野公園。

 京成線は日暮里駅の手前、JR線を越える付近でトンネルから地上に出てきます。それまでは上野の山の地下を抜けていきます。

「しのぶ川」。

                     

 

       小松宮彰仁親王」銅像。

 小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。 
安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867) 勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。 
同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。 ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。 
明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。 
同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。 
同36年1月18日、58歳で没。 
銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。 
作者は文展審査員の大熊氏廣。
「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。

人通りはこの程度。正面は、「国立博物館」。

 ○のところに「京成本線」とある。

この案内板で確認すると、京成線は「寛永寺・お化け燈籠」、上野動物園入り口付近、「都美術館」の脇を抜け、「区立上野中学」前の道路下を走っているようです。

上野駅(地下)方向を望む。

 

                   お化け燈籠」。

 佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の灯籠で、
  奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
  東照大権現御宝前石燈籠
   寛永年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この灯籠を寄進したのである。
 勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北條氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで1万8千石を領した。
 燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.36メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。

上野動物園」。この時は、まだ休園中。

 「初代歌川広重 東都名所上野東叡山全図

少し道をそれて、東側に。

野口英世」像。

野口英世は、明治9年(1876)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。明治31年(1898)、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、明治33年(1900)12月に渡米、明治37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。
 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩武術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BOMB HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周施によて上野公園に造立されることが決定した。
 昭和26年(1951)3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
 なお、銅像全面の標示石・敷石は昭和46年(1971)に会津会が設置したものである。

こちらは「旧奏楽堂」にある「滝廉太郎」像。

「国立科学博物館」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今を盛りのタチアオイ、咲き始めたアジサイ。そして、満開のツツジ。隅田公園。

2020-06-01 20:37:08 | 隅田川

隅田公園。サクラ、ウメばかりではなく・・・。タチアオイ。

「梅雨葵」とも言われます。

「アオイ(葵)」というと、つい葵の御紋、徳川家の家紋と思ってしまいがちですが、まるで違う植物の葉をデザインしたもの。

 葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもの。

  

 フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるように賀茂氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。 その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきた。これにより三河武士である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏(河内源氏)系新田氏流世良田氏(得川氏)の末裔ではなく賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。 
 豊臣家が滅んだ後、徳川家康の権威が上がると徳川家使用紋の葵紋は特別な家紋となっていった。家康が征夷大将軍となった後、次第に徳川将軍家以下一門に制限され、他家に使用禁止となったは、享保8年(1723年)。 
 天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い桐紋を徳川家にも与えようとしたが、徳川家はこれを固辞したため、葵紋の権威が上がったともいわれる。

(この項、「Wikipedia」参照)

アジサイ(紫陽花)は、これからが見所。

     

        

「山の宿の渡し跡」。

山の宿の渡し跡            台東区花川戸1丁目1番
隅田川渡船の一つに,「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。 明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は, 隅田川に船路を描き, 「山ノ宿ノ渡,枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は 吾妻橋上流約250メートル。 浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を, 命名。 別称は, 東岸船着場が 枕橋橋畔にあったのにちなむ。 枕橋は 墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は, 江戸中期ごろから墨堤と呼ばれ, 行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く, 山の宿の渡しは それらの人を墨堤に運んだであろう。したがって, 江戸中期以降の開設とみなせるが, 天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」は この渡しを描いていない。

(明治の古地図「goo」より)

 渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、その町名をとって命名されたようです。また、「花川戸の渡し」と称されたり、東岸(対岸)の船着場が北十間川・枕橋のたもとにあったので「枕橋の渡し」とも。
 ただgoo提供の明治古地図(年代不明)には、「枕橋の渡し」「山の福の渡し」と表記されています。「福」は「宿」の誤りか。その地図には、少し北の隅田川沿いに「山の宿郵便局」と記載された郵便局があります。 

        

そして満開のツツジ。

出かけたのは、5月28日(木)。もうちょっとアジサイが見頃になったら、梅雨空の下、来てみましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする