「山吹の花一枝」像。太田道灌像に対面する女性の像。
(荒川区HPより)
2018年5月23日 ·
【山吹の里伝説・日暮里に銅像~「山吹の花一枝」像 除幕式~】
平成30年5月23日(水曜)、JR日暮里駅前広場において、平野千里(ひらの・せんり)氏作「山吹の花一枝」(やまぶきのはないっし)像の除幕式が行われました。
これは、東京荒川ライオンズクラブ設立55周年を記念して、同クラブが荒川区に寄贈したものです。「山吹の花一枝」像が、30年前にも設立25周年を記念して区に寄贈された太田道灌(おおた・どうかん)騎馬像「回天一枝」(かいてんいっし)の近くに設置されたことで、山吹の里伝説にちなんだ像2体が並び立つことになりました。
「山吹の花一枝」像は、日暮里の地ゆかりの武将・太田道灌の山吹の里伝説にちなんで制作されたもので、太田道灌が鷹狩の途中で急な雨にあい蓑を借りるために立ち寄った農家で、出てきた娘が蓑がないことを山吹の一枝を差し出して伝えたというものです。 また、今回の銅像制作は、荒川区顧問であり、日本を代表する彫刻家の平野千里氏の手によるもので、区内ではJR南千住駅前に立つ松尾芭蕉像も平野氏の作品です。
日暮里駅前にある「太田道灌像」。
若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話があります。
ここで「落語」を紹介。
道灌 (落語)
あらすじ
「岩田のご隠居」宅に遊びに来た八五郎は、隠居に張りまぜ(=複数の絵を貼った)の屏風を見せてもらう。八五郎は絵のひとつについて、「シイタケの親方みてェな帽子かぶって、虎の皮のモモヒキ履いて突っ立ってるあれは誰です?」とたずねる。それは太田道灌の「山吹の里」の伝説を描いたものであった。隠居は以下のような道灌の逸話を語る。
室町時代中期の武人・道灌は、狩りをしている最中に村雨に遭い、雨具を借りようと1軒のあばら家に立ち寄った。15歳くらいの少女が出てきて、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ山吹の枝を盆に乗せて差し出し、頭を下げた。道灌が意味をつかみかねていると、家来のひとりが「『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』という古歌がございます(後拾遺和歌集・兼明親王作)。これは『実の』と『蓑(みの)』をかけ、『お出しできる雨具はございません』という断りでございましょう」と進言した。これを聞いた道灌は「ああ、余はまだ歌道(かどう)に暗いのう」と嘆き、それ以来和歌に励み、歌人として知られるようになった。
これを聞いた八五郎は「うちにもよく傘を借りに来る男がいる。ひとつその歌で追っ払ってやろう」と思いつき、歌を仮名で隠居に写してもらって帰宅する。ほどなくして雨が降り出し、その男が飛び込んでくる。からかうチャンスがやって来たと感じた八五郎は内心で喜ぶが、男はすでに傘を持っていて、「提灯を貸してほしい」と八五郎に頼む。雨具でなければ「蓑ひとつだに」ができないため、八五郎は困り、「『雨具を貸してください』と言やァ、提灯を貸してやらァ」と男に告げる。男がしかたなく「雨具を貸してくれ」と言うと、八五郎は少女を演じ、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ、歌が書かれた紙を差し出した。男はそれを「ナナヘヤヘ、ハナハサケドモ、ヤマブシノ、ミソヒトダルト、ナベトカマシキ」とつかえながら読み、「短(みじ)けェ都々逸だな」と感想を漏らす。八五郎が「都々逸う? おめえ、よっぽど歌道が暗(くれ)ェなァ」とからかうと男は、
「カド(=角)が暗ェから、提灯借りに来た」
(この項、「Wikipedia」参照)
右の頭上に「日暮里舎人ライナー」。
京成の日暮里駅も大改造されています。成田空港まで「スカイライナー」が発着します。変則的な駅の構造ですが。
「ひぐらしの里」とある。
駅前も大きく様変わり。高層ビルが建ち並んでいます。
高架線に沿って、「新三河島」駅に向かいます。
駅方向を振り返る。「音無川」跡の道。
JR常磐線。
頭上が京成線。
その上に「日暮里舎人ライナー」。正面奥が西日暮里駅付近。
京成線の高架脇を進みます。
JR貨物線の踏切を渡ります。
と「藍染川西通り」との表示が。
ここから町屋駅の先までかつて流れていた「藍染川」跡の道路を進むことに。