被爆77年の「原爆の日」 広島で祈りの一日始まる
「「平和宣言」で、広島市の松井一実市長は、ロシアによるウクライナ侵攻で、罪のない市民の命や日常が奪われていることに言及します。武力によらず平和を維持するという理想の追求を放棄することは、人類の存続を危うくすることだとした上で、一刻も早く全ての核のボタンを無用のものにしなくてはならないと訴えます。そしてロシアの文豪、トルストイによる、「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」という言葉を引用します。」
「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」というのは、一般論としては肯定できそうだが、果たして実際の社会はそうなっているだろうか?
卑近な例で言うと、ある会社において、1人の採用枠に5人の応募があったとすると、不採用となった4人の不幸の上に、採用された1人の幸福が築かれていることになりそうである。
宝くじも同様で、当選した人の幸福は、多数の外れくじを買った人たちの不幸の上に成り立っているように見える。
・・・こういう風に考えると、社会は、やはり「ゼロサム・ゲーム」=「ある人の犠牲の上にある人が利益を得るという仕組み」に基づいて成り立っているかのように思えてしまう。
ちょっと論理が飛躍したが、平和祈念式典においても、「多数の原爆犠牲者の上に今日の平和がある」などという言葉を用いるのは、結局は「ゼロサム」思考に陥っていることになり、不適切だろう。
「ゼロサム」思考こそが戦争を生むわけで、これを克服することが出発点だと思うのである。
合掌。
「「平和宣言」で、広島市の松井一実市長は、ロシアによるウクライナ侵攻で、罪のない市民の命や日常が奪われていることに言及します。武力によらず平和を維持するという理想の追求を放棄することは、人類の存続を危うくすることだとした上で、一刻も早く全ての核のボタンを無用のものにしなくてはならないと訴えます。そしてロシアの文豪、トルストイによる、「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」という言葉を引用します。」
「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」というのは、一般論としては肯定できそうだが、果たして実際の社会はそうなっているだろうか?
卑近な例で言うと、ある会社において、1人の採用枠に5人の応募があったとすると、不採用となった4人の不幸の上に、採用された1人の幸福が築かれていることになりそうである。
宝くじも同様で、当選した人の幸福は、多数の外れくじを買った人たちの不幸の上に成り立っているように見える。
・・・こういう風に考えると、社会は、やはり「ゼロサム・ゲーム」=「ある人の犠牲の上にある人が利益を得るという仕組み」に基づいて成り立っているかのように思えてしまう。
ちょっと論理が飛躍したが、平和祈念式典においても、「多数の原爆犠牲者の上に今日の平和がある」などという言葉を用いるのは、結局は「ゼロサム」思考に陥っていることになり、不適切だろう。
「ゼロサム」思考こそが戦争を生むわけで、これを克服することが出発点だと思うのである。
合掌。