TUGUMI 吉本ばなな 著
(以下、ネタバレご注意!)
存命中の作家の小説は、基本的に筒井康隆・池澤夏樹の2人の作品を除いて読まない主義の私だが、先日約30年ぶりに再読した「キッチン」が非常に良かったので、当時のベストセラーだった「TUGUMI」を読んでみた。
序盤を読むと、設定が奇抜なように見えて、必ずしもそうではなさそうであることに気付く。
つまり、「意地悪で粗野で口が悪く、わがままで甘ったれでずる賢い」(p11)つぐみという美少女は、ピカレスク小説における「悪漢」を少女に置き換えただけのように見える。
それだけの単純な小説であれば、私などはあとは斜め読みして済ませるところだが、我慢して読んでいるうちに、もう一つの試みが隠れていることに気付いた。
「・・・それがいくら自然の産み出したやむをえないこととはいえ、つぐみのこわれた肉体に、つぐみの心が宿っているというのはひどく切ないことだった。つぐみには誰よりも深く、宇宙に届くほどの燃えるような魂があるのに、肉体は極端にそれを制限しているのだ。」(p116)
「・・・私の声は波音と重なり、闇と吹きわたる風と、ほほを打つ冷たい水滴の中にくっきりと、つぐみの面影を浮かび上がらせた。まるで点々と海をふちどる船明かりのように、つぐみの行動を言葉にすればするほど、つぐみの生命の光が今ここにあるみたいな強烈さで話のそこここに輝きはじめるのだ。・・・つぐみはただそこにいるだけで、何か大きなものとつながっているのだ。」(p194~196)
ここまで読めば、さすがに作者の意図が分かる。
執拗な「海」の描写が示しているのは、つぐみが「海」(ないし自然)の化身であり、いまだ「社会化」されない存在であるということなのだ(この解釈は、作者自身による「文庫版あとがき」(p232~235)によってお墨付きを得る)。
ここで私は、「白鯨」についてのトーマス・マンの解釈(確か「ゲーテとトルストイ」だったという記憶)を思い出す。
マンは、白鯨(モービー・ディック)を「無垢な自然」の象徴と解したうえで、それは人間社会の尺度からすれば、”悪”に近いということを指摘している。
つまり、「無垢な自然」は人間(ないし社会)に対立するものであり、つぐみがそうであるように、”悪”に見えるわけである。
ところが、「海」を化体した孤独なつぐみは、恭一というボーイフレンドに出会い、ようやく人間(ないし社会)に心を開く。
つぐみが暮らしていた海沿いにある旅館は閉鎖され、つぐみは、恭一の父が経営する山の上にあるホテルに引っ越すことになった(p222)。
ここでは、「つぐみ」及び「海」(自然)と、「恭一」及び「山」(人間・社会)との対比が鮮やかである。
・・・問題は、「社会化」された後のつぐみがどうなったかである。
作者によれば、「つぐみは私です」(p230)ということなので、ばなな氏の最近の小説を読めばよいのかもしれない。
さて、「少女」(自然)から「おばさん」(人間・社会)への変貌の結果はいかに・・・?
(以下、ネタバレご注意!)
存命中の作家の小説は、基本的に筒井康隆・池澤夏樹の2人の作品を除いて読まない主義の私だが、先日約30年ぶりに再読した「キッチン」が非常に良かったので、当時のベストセラーだった「TUGUMI」を読んでみた。
序盤を読むと、設定が奇抜なように見えて、必ずしもそうではなさそうであることに気付く。
つまり、「意地悪で粗野で口が悪く、わがままで甘ったれでずる賢い」(p11)つぐみという美少女は、ピカレスク小説における「悪漢」を少女に置き換えただけのように見える。
それだけの単純な小説であれば、私などはあとは斜め読みして済ませるところだが、我慢して読んでいるうちに、もう一つの試みが隠れていることに気付いた。
「・・・それがいくら自然の産み出したやむをえないこととはいえ、つぐみのこわれた肉体に、つぐみの心が宿っているというのはひどく切ないことだった。つぐみには誰よりも深く、宇宙に届くほどの燃えるような魂があるのに、肉体は極端にそれを制限しているのだ。」(p116)
「・・・私の声は波音と重なり、闇と吹きわたる風と、ほほを打つ冷たい水滴の中にくっきりと、つぐみの面影を浮かび上がらせた。まるで点々と海をふちどる船明かりのように、つぐみの行動を言葉にすればするほど、つぐみの生命の光が今ここにあるみたいな強烈さで話のそこここに輝きはじめるのだ。・・・つぐみはただそこにいるだけで、何か大きなものとつながっているのだ。」(p194~196)
ここまで読めば、さすがに作者の意図が分かる。
執拗な「海」の描写が示しているのは、つぐみが「海」(ないし自然)の化身であり、いまだ「社会化」されない存在であるということなのだ(この解釈は、作者自身による「文庫版あとがき」(p232~235)によってお墨付きを得る)。
ここで私は、「白鯨」についてのトーマス・マンの解釈(確か「ゲーテとトルストイ」だったという記憶)を思い出す。
マンは、白鯨(モービー・ディック)を「無垢な自然」の象徴と解したうえで、それは人間社会の尺度からすれば、”悪”に近いということを指摘している。
つまり、「無垢な自然」は人間(ないし社会)に対立するものであり、つぐみがそうであるように、”悪”に見えるわけである。
ところが、「海」を化体した孤独なつぐみは、恭一というボーイフレンドに出会い、ようやく人間(ないし社会)に心を開く。
つぐみが暮らしていた海沿いにある旅館は閉鎖され、つぐみは、恭一の父が経営する山の上にあるホテルに引っ越すことになった(p222)。
ここでは、「つぐみ」及び「海」(自然)と、「恭一」及び「山」(人間・社会)との対比が鮮やかである。
・・・問題は、「社会化」された後のつぐみがどうなったかである。
作者によれば、「つぐみは私です」(p230)ということなので、ばなな氏の最近の小説を読めばよいのかもしれない。
さて、「少女」(自然)から「おばさん」(人間・社会)への変貌の結果はいかに・・・?