憲法の土壌を培養する 近代国家の構造と法による「闇」への対処……毛利 透
「人格の傷つきやすさへの対処として、ハーバーマスは反事実的な想定として理想的発話状況を掲げ、それにより現実を批判的に評価する拠り所を議論参加者に示そうとした。現実がおかしい、この議論空間は狂っているという視点を持つことが、その者の人格を支え、現実に対する批判的問題提起を行う勇気を与えると考えたのである。」(p78~79)
「そこからホネットは、資本主義社会において人の価値評価が労働を基準としてなされることが多いことにかんがみ、労働が発生させる規範的な承認要求こそ批判理論が扱うべき課題だとする。」(p80)
「このような検討から、憲法学にとって何が言えるのだろうか。一つには、集団の中で私的権力による「闇」が発生するのを抑制するためには、労働の現場(に限らないが)の問題を外部に訴えることが可能でなければならないということである。ここから、公共での言論活動が、その者の職業生活を脅かすことなく可能であるべきだという要請が導けると思われる。」(p84)
またしてもこの本の書評になってしまったが、冒頭の「鼎談」に対する憲法学者などからの論評部分も面白い。
上に引用したのは毛利透先生の論評だが、最後の結論部分には賛成できるとしても、先生が依拠するユルゲン・ハーバーマス(とホネット)の人間観の部分を含め、問題点も多い。
まず、「他者の評価に依存しなければ自己のアイデンティティを確立できない」という「弱い個人」の措定(p77)と、そこから導かれる(とりわけ労働の現場における)「承認要求」の正当化は、無条件に肯定できるようなものではない。
そもそも、自分の価値を他者が決める状況をつくりだしてしまうメカニズムこそが問題なのであり、そのことはアドラーの指摘(承認欲求の対象)を待つまでもないだろう。
分かりやすく言うと、「言うことを聞かないと左遷するからな!」、「辞めても再就職先はないぞ!」などといった、私的権力による(労働の現場における)絶対的なネガティヴ評価が背景にあるからこそ、森友学園公文書改ざん事件やスルガ銀行不正融資問題などが起こってしまう・防げないわけである(念のために言っておくと、この文脈での近畿財務局・財務省理財局は、「私的権力」である。)。
次に、ホネットのように、「労働」を承認要求が充足されるべき「場」として重視し過ぎるのも問題である。
「弱い個人」(というか「他者の評価に依存する、弱められた個人」)を一つの労働の「場」に取り込んで閉じ込めてしまうことこそが、この種の私的権力の狙いなのであり、赤木さんもスルガ銀行の融資担当者も、その「場」から逃げられなかったのである。
ざっくり言うと、毛利先生の主張をそのまま採用すれば、逆に、これまで猛威を振るってきた私的権力の術中にはまってしまうということなのだ。
だが、私が毛利先生の結論部分に賛成なのは、最低限、この「場」(議論空間)から外部への逃げ道を確保し、「この議論空間は狂っている」という叫びをあげることのできる権利を保障することが必要だからであり、これがなかったために、これまでたくさんの悲劇が生まれてきたのである。
そして、これは、(中国、ロシアとは違って)「週刊文春」のような雑誌が大活躍しているような国においては、十分達成可能なことなのだ。
「人格の傷つきやすさへの対処として、ハーバーマスは反事実的な想定として理想的発話状況を掲げ、それにより現実を批判的に評価する拠り所を議論参加者に示そうとした。現実がおかしい、この議論空間は狂っているという視点を持つことが、その者の人格を支え、現実に対する批判的問題提起を行う勇気を与えると考えたのである。」(p78~79)
「そこからホネットは、資本主義社会において人の価値評価が労働を基準としてなされることが多いことにかんがみ、労働が発生させる規範的な承認要求こそ批判理論が扱うべき課題だとする。」(p80)
「このような検討から、憲法学にとって何が言えるのだろうか。一つには、集団の中で私的権力による「闇」が発生するのを抑制するためには、労働の現場(に限らないが)の問題を外部に訴えることが可能でなければならないということである。ここから、公共での言論活動が、その者の職業生活を脅かすことなく可能であるべきだという要請が導けると思われる。」(p84)
またしてもこの本の書評になってしまったが、冒頭の「鼎談」に対する憲法学者などからの論評部分も面白い。
上に引用したのは毛利透先生の論評だが、最後の結論部分には賛成できるとしても、先生が依拠するユルゲン・ハーバーマス(とホネット)の人間観の部分を含め、問題点も多い。
まず、「他者の評価に依存しなければ自己のアイデンティティを確立できない」という「弱い個人」の措定(p77)と、そこから導かれる(とりわけ労働の現場における)「承認要求」の正当化は、無条件に肯定できるようなものではない。
そもそも、自分の価値を他者が決める状況をつくりだしてしまうメカニズムこそが問題なのであり、そのことはアドラーの指摘(承認欲求の対象)を待つまでもないだろう。
分かりやすく言うと、「言うことを聞かないと左遷するからな!」、「辞めても再就職先はないぞ!」などといった、私的権力による(労働の現場における)絶対的なネガティヴ評価が背景にあるからこそ、森友学園公文書改ざん事件やスルガ銀行不正融資問題などが起こってしまう・防げないわけである(念のために言っておくと、この文脈での近畿財務局・財務省理財局は、「私的権力」である。)。
次に、ホネットのように、「労働」を承認要求が充足されるべき「場」として重視し過ぎるのも問題である。
「弱い個人」(というか「他者の評価に依存する、弱められた個人」)を一つの労働の「場」に取り込んで閉じ込めてしまうことこそが、この種の私的権力の狙いなのであり、赤木さんもスルガ銀行の融資担当者も、その「場」から逃げられなかったのである。
ざっくり言うと、毛利先生の主張をそのまま採用すれば、逆に、これまで猛威を振るってきた私的権力の術中にはまってしまうということなのだ。
だが、私が毛利先生の結論部分に賛成なのは、最低限、この「場」(議論空間)から外部への逃げ道を確保し、「この議論空間は狂っている」という叫びをあげることのできる権利を保障することが必要だからであり、これがなかったために、これまでたくさんの悲劇が生まれてきたのである。
そして、これは、(中国、ロシアとは違って)「週刊文春」のような雑誌が大活躍しているような国においては、十分達成可能なことなのだ。