研究社小英文叢書169 世界史の中の日本 Japan in World History
”How is one to account for the difference in the political development of Japan and the political development of Western Europe which is so marked after about A.D. 1600?”(中略)
"The most important difference which I can discern is in the absence of the main element in the liberal tradition, that is to say, the respect for the individual."(p63~64)
「1600年ころ以降顕著となる日本と西欧の政治的な発展の違いの理由をどう説明すればよいだろうか?」
「私が気付くことのできた最も重要な違いは、(日本における)自由の伝統における主要素、すなわち『個人の尊重』の欠如にある。」
『日本文学史序説』補講 加藤 周一 著
「アナーキズムがなぜ日本で流行らないかという理由は、日本人は個人主義ではないからです。アナーキズムこそは最終的には社会を個人に分解するものです。どういう権力であれつぶしてしまえ、個人の自由意志によって権力をつぶしてしまえおいうのでしょう。それはある意味で徹底的な個人主義、政治的個人主義の空想的極致がアナーキズムです。」(p210)
憲法の土壌を培養する
蟻川「樋口先生は、この市民革命期近代、今日の議論で言えば、初期近代の原理を『抑止力としての憲法』の中で、まさしくホッブズにまでさかのぼった上で、決定的な命題として取り出されました。それは「国家による・社会からの・個人の自由」(同署80頁)という定式です。」(p32~33)
約30年に亘って日本で外交官として勤務したG.B.サンソムは、日本における「個人の尊重の欠如」を指摘する(ちなみに、続くくだりでサンソムは、西欧(特にイングランドとオランダ)では、専制に対する抵抗の基礎にピューリタニズムがあったことを指摘している)。
この点、加藤周一は、アナーキズムは「政治的個人主義の極致」であると指摘しており、サンソムの見解との親和性を示している。
アナーキズムの一例は、専制君主の(実力を含む手段による)排除であるが、加藤氏も、その基礎に「個人の尊重」があるとみているようだ(しかも、日本はこれを決定的に欠くとする点でサンソムと見解が一致している。)。
だが、私見では、加藤氏はここで大きな見落としをしているように思う。
それは、「私的権力(社会的権力)の解体」という、国家のもつ重要な機能に対する評価である。
もともと、個人を抑圧する主な主体は、国家ではなく、むしろ社会に存在する諸集団=私的権力、江戸時代で言うとその最たるものは「イエ」(「藩」を含む)であった。
近代の国家は、本来であれば、これを解体して自由な個人をつくりだす役目を担っていた。
ところが、明治維新においては、こうした私的権力は解体されるどころか、国家に奉仕するアクターとしてむしろ強化された。
そして、現在の状況はその延長線上にあると、樋口・蟻川両先生はみているはずである。
ところで、日本で私的権力の問題があまりフォーカスされないのは、私見では、それが通常「専制君主」を内包しておらず、構成員にとって”心地よい”からではないかと思う。
例えば、いかに「パワハラ社長」や「パワハラ上司」と言えども、ヘンリー8世ほどの暴君はまずいないだろう。
なので、「カイシャ」という帰属集団から飛び出して不安な状況に陥るよりも、私的権力による多少の抑圧は我慢するという日本人の方が多数派だと思うのである。
”How is one to account for the difference in the political development of Japan and the political development of Western Europe which is so marked after about A.D. 1600?”(中略)
"The most important difference which I can discern is in the absence of the main element in the liberal tradition, that is to say, the respect for the individual."(p63~64)
「1600年ころ以降顕著となる日本と西欧の政治的な発展の違いの理由をどう説明すればよいだろうか?」
「私が気付くことのできた最も重要な違いは、(日本における)自由の伝統における主要素、すなわち『個人の尊重』の欠如にある。」
『日本文学史序説』補講 加藤 周一 著
「アナーキズムがなぜ日本で流行らないかという理由は、日本人は個人主義ではないからです。アナーキズムこそは最終的には社会を個人に分解するものです。どういう権力であれつぶしてしまえ、個人の自由意志によって権力をつぶしてしまえおいうのでしょう。それはある意味で徹底的な個人主義、政治的個人主義の空想的極致がアナーキズムです。」(p210)
憲法の土壌を培養する
蟻川「樋口先生は、この市民革命期近代、今日の議論で言えば、初期近代の原理を『抑止力としての憲法』の中で、まさしくホッブズにまでさかのぼった上で、決定的な命題として取り出されました。それは「国家による・社会からの・個人の自由」(同署80頁)という定式です。」(p32~33)
約30年に亘って日本で外交官として勤務したG.B.サンソムは、日本における「個人の尊重の欠如」を指摘する(ちなみに、続くくだりでサンソムは、西欧(特にイングランドとオランダ)では、専制に対する抵抗の基礎にピューリタニズムがあったことを指摘している)。
この点、加藤周一は、アナーキズムは「政治的個人主義の極致」であると指摘しており、サンソムの見解との親和性を示している。
アナーキズムの一例は、専制君主の(実力を含む手段による)排除であるが、加藤氏も、その基礎に「個人の尊重」があるとみているようだ(しかも、日本はこれを決定的に欠くとする点でサンソムと見解が一致している。)。
だが、私見では、加藤氏はここで大きな見落としをしているように思う。
それは、「私的権力(社会的権力)の解体」という、国家のもつ重要な機能に対する評価である。
もともと、個人を抑圧する主な主体は、国家ではなく、むしろ社会に存在する諸集団=私的権力、江戸時代で言うとその最たるものは「イエ」(「藩」を含む)であった。
近代の国家は、本来であれば、これを解体して自由な個人をつくりだす役目を担っていた。
ところが、明治維新においては、こうした私的権力は解体されるどころか、国家に奉仕するアクターとしてむしろ強化された。
そして、現在の状況はその延長線上にあると、樋口・蟻川両先生はみているはずである。
ところで、日本で私的権力の問題があまりフォーカスされないのは、私見では、それが通常「専制君主」を内包しておらず、構成員にとって”心地よい”からではないかと思う。
例えば、いかに「パワハラ社長」や「パワハラ上司」と言えども、ヘンリー8世ほどの暴君はまずいないだろう。
なので、「カイシャ」という帰属集団から飛び出して不安な状況に陥るよりも、私的権力による多少の抑圧は我慢するという日本人の方が多数派だと思うのである。