「同じ新国立劇場の中劇場にて『夏祭浪花鑑』を9月歌舞伎公演(9月1日(日)~25日(水))でも同時期に上演いたします。文楽・歌舞伎の『夏祭浪花鑑』の“競演”にもご注目ください。」
文楽・歌舞伎の両方で「夏祭浪花鑑」を鑑賞出来るチャンスである。
但し、文楽では「釣船三婦内の段」と「長町浦の段」の2段が上演されるのに対し、歌舞伎ではこれに加えて「住吉鳥居前の場」も上演される。
というわけで、私はセット券を購入して、文楽→歌舞伎の順に観たのだが、これは逆の方が良かった。
というのも、歌舞伎の方は、冒頭で片岡亀蔵氏による「入門『夏祭浪花鑑』をたのしむ」があり、鑑賞のポイント(以下の3点)が提示されていたからである。
① 男同士の達引
② 女の意地
③ 泥まみれの死闘
①の「達引」と②の「意地」は同義と見てよく、そのことは、セリフから一目瞭然である。
すなわち、「釣船三婦の段」では、三婦とお辰との間のシンメトリカルなやり取り:
三婦「(磯之丞とお辰との間に何かがあっては)俺の男が立たぬ!」
お辰「(磯之丞の身柄を預かれないのであれば)私の女が立たぬ!」
である。
ラストでは、団七もこの種のセリフを吐く。
団七「さうしられてはこの九郎兵衛の顔がどうも立ちませぬ」
「ヤアそれではこの九郎兵衛がどうも顔が立たぬ」
お辰や団七がこれほど「顔」を気にするのは、「恩」のある磯之丞(とその”イエ”である玉島家)に対する「忠」=「返礼する義務」を極めて重視しているからである。
要するに、この人たちは、réciprocité(レシプロシテ:相互依存、互酬性)の枠内から一歩も出ることが出来ないのである。
徳兵衛も同じであり、団七と「兄弟」(水平的な紐帯)の契りを結んだのも、共に玉島家に「恩」(垂直的な関係の基盤)があるからであり、やはりréciprocitéの枠内で生きている。
親族関係においてもこうした「垂直的な関係」が根本であり、「孝」が倫理の中核をなしていた。
それゆえ親殺しは死罪、しかも「獄門」(=斬首および晒し首、情状によっては引廻し)とされたわけである。
加えて、ラストの、
団七「悪い人でも舅は親、南無阿弥陀仏」
は、”イエ”倫理の適用(というか、構成員の把握)において姻族を血族と区別しない特殊日本的な思考を示しており、「孝」は舅にも適用された。
なので、「舅殺し」=「親殺し」となる。
・・・さて、ポトラッチ・ポイントの算定については、既に4月に行っており(4月のポトラッチ・カウント(2))、結論は6.0。