勧進帳のラストで最も重要なのは、例の「飛び六方」ではない。
セリフはないが、弁慶がしみじみと天を見上げるシーンである。
原作の謡曲「安宅」にこのシーンはないが、弁慶は、危難を救ってくれた八幡大菩薩のご加護に対し感謝の意をあらわしているのである。
このことは、「安宅」で言うと、少し前の義経のセリフから分かる(他力)。
「いまの機転さらに凡慮よりなす業にあらず、ただ天の御加護とこそ思へ」
「これ弁慶が謀にあらず、八幡が御託宣かと思へば、かたじけなくぞ覚ゆる」
ここで「おや?」と思うのは、八幡大菩薩は清和源氏の氏神とされていたにもかかわらず、源氏のゲノムを持たない弁慶が、八幡大菩薩を信仰の対象としている点である。
源氏のイエに生まれたわけではない弁慶が、源氏の氏神を、まるで自分の先祖のように崇めているのである。
その理由は、義経(判官)と弁慶の関係に立ち戻ってみると分かる。
「・・・即ち一方で上部の構造を王制によって保障され、他方で首長制と部族とのジェネアロジクな結合もまた必ずしも必要でなくなれば、もし首長にとって自らの agnati が十分な数である場合、論理的には却ってこの者達だけで一定のテリトリーを占拠することが可能となる。しかしそのためには agnati を自足的に増殖させなければならなくなる。このとき使われるのが、様々な度合いの擬制的義兄弟関係である。・・・このときに形成される擬制的 agnati (genos, gens : gn)相互の関係、及びそうした性質を有する集団を clientela と呼ぶ。」(p112~113)
義経と弁慶は、”義兄弟”、つまり一種の clientela の関係にあるといって良いと思う。
「イリアス」の世界と同様である。
だが、義経・弁慶で特殊なのは、「武祖神」という概念が導入されている点である。
八幡大菩薩(八幡神)は応神天皇と同一視されているのだが、「皇祖神」である天照大神とは異なる世界を創り、「アマテラスによる王朝的秩序からの解放」という役割を担っていた。
なので、弁慶のような源氏のゲノムを持たない人物も包摂出来てしまうのである。
要するに、この種の”イエ”の思考は、「この神様/仏様を信仰すれば、みんな”家族”になれますよ」という一種の宗教なのである。
・・・なんだか、「サラブレッドでなくても歓迎します!」という旧二階派のリクルート方針(イエv.s.疑似イエ、あるいはもう一つの大井競馬第3レース(6))に似ていて興味深い。