1990年、バブル景気に沸く日本で公開され、大人気を博した映画『プリティ・ウーマン』。そのミュージカル版が日本に初めてやってくる!
イギリス階級社会への風刺と女性の自立をテーマとする難しい内容の戯曲であるため、おそらく私は殆ど内容を理解出来なかったと思う。
ただ、今でも覚えているのは、この教師が本を貸す際に述べた、
「これはつまらないわよ」
という一言である。
さて、「ピグマリオン」は「マイ・フェア・レディ 」の題名でミュージカル化、次いで映画化され、映画版はアカデミー作品賞を受賞した。
時を経た90年代、そのリメイク版とされた映画が、「プリティ・ウーマン」だった(ちなみに、私はこの映画を見ておらず、ただ当時大ヒットしたことだけ覚えている。)。
これが2018年にミュージカル化され、このたび来日公演が開催されることとなった。
以上の経緯からすると、「プリティ・ウーマン」の原作(の原作の原作)は、「ピグマリオン」であるが、舞台はアメリカなので、テーマは「女性の自立」なのではないかと予想していた。
確かに、主人公:ヴィヴィアンは、ハリウッドで売春婦(スラングで”hooker”という)をしており、西欧の伝統からすれば、”救済”の対象となるはずである。
つまり、「穢れた場に身を置く清らかな女性を救い出す」 という、古代ギリシャ・ローマ以来のお馴染みのストーリー(傑作の欠点(7))が描かれていると錯覚しそうである(実際、「椿姫」第2幕のシーンが何度か出て来る)。
ところが、である。
ヴィヴィアンの、次のセリフが決定的に重要なのだ。
「私は所有物じゃないわ。いつ、誰と、いくらでヤるかは、自分で決める。私の価値は、自分で決める。・・・これが私の人生よ」
と言って、エドワードの最初のプロポーズを蹴ってしまうのである。
私はここで目からうろこが落ちる思いがした。
ヴィヴィアンは最初から自立しており、彼女の自立ないし救済はそもそもテーマとなり得ない。
つまり、「プリティ・ウーマン」は、「ピグマリオン」のリメイクなんかじゃなかったのである。
むしろ、救済の対象は、何も作らず、会社の合併と分割によるマネーゲームに明け暮れる「廃物商」:スクラップ・ディーラー(scrap dealer)であるエドワードの方だった。
救済対象が逆転しているのだ。
・・・とはいえ、「プリティ・ウーマン」が「ピグマリオン」から設定を借りていることは確かなので、作者としてそれなりに敬意を払っているかのように思われる箇所もある。
ヴィヴィアン「ダンスは、本来は水平的な感情を、垂直の動きに変えるものなの」
エドワード「それはジョージ・バーナード・ショーの言葉だ」
ヴィヴィアン「いや、昔、お客さんから聞いたの」
・・・いや、待てよ。
これは、イギリスかぶれの米国上流階級に対する皮肉であり、お馴染みのアメリカン・アンチインテレクチュアリズム(米国流反主知主義)を表したものではないか?
とすれば、バーナード・ショーは、おちょくられているのではないか?
・・・などと思う、一夜であった。