Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

”原母”の死、あるいは暗喩としての土

2024年09月13日 06時30分00秒 | Weblog
「春の祭典」 振付:ピナ・バウシュ
「PHILIPS 836 887 DSY」 振付:ピナ・バウシュ 出演:エヴァ・パジェ
「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」 振付・出演:ジェルメーヌ・アコニー  

 ピナ・バウシュ版「春の祭典」の日本での上演は18年ぶり、ということで無条件でチケットを買った。
 最初の演目は、「PHILIPS 836 887 DSY」で、ストーリー性がない上に短いので、「分かろうとせず、感じる」ことに徹した。
 結果、コリオグラファーが、「低い姿勢で上半身を回転させる」という動きを好んでいることはつかめた。
 次の、「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」 は、ピナ版「春の祭典」の解説のように感じた。
 以下は、舞踊の際に朗読される詩の一節である。

 「アルーフォ、私の祖母、聖職者、フォン族の王国、蛇の体内に生まれたあなたは、子どもを持つことができませんでした。夢の中で、あなたは壺から水を飲み、黒い雄羊を捧げなければならなかった。私の父を産んだとき、あなたは60を超えていました。
 私が生まれた時、人々は叫びました。「イヤトゥンデ!イヤトゥンデ!」母が戻って来たという意味の「イヤトゥンデ!」と。
 「亡くなった者たちは死んでいない・・・
 死者は地中にはいない

 ここだけ見ても、ケルト神話の「大母神崇拝」(「父」の承継?(7)?)との類似性が明らかであるが、これが、「春の祭典」の(語られない)プリクエル(前日譚)を暗示していると思う。
 ストラヴィンスキーの音楽「春の祭典」は、人身供犠のストーリーに基づいており(ストラヴィンスキー《春の祭典》〜どんなお祭り?)、ピナ版「春の祭典」もやはり人身供犠を描いている。
 だが、主人公は、舞台一面に敷き拡げられた「土」(というか、地母神)である(幕間の30分を使って慎重にセッティングがなされた)。
 例えば、途中で大柄な男性が地面に俯むけに倒れ込み、仮死状態に陥った後蘇生するが、これは、「土」から地母神の霊が男性に憑依し、いわば”顕現(代理化)”したことを示しているようだ。
 そして、彼が、生贄となる乙女を指名するわけである。
 乙女は、ラストで「土」の上に倒れ込み、息絶えて「土」に帰る。
(但し、若干注意が必要なのは、「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」における祖先の霊は、「地中」ではなく、”Things”(ものごと)の中に潜んでいるとされており、ピナとは「土」の位置づけが違うところである。)
 このように、ピナの描く人身供犠は、生命を「火」のアナロジーで捉えるインド・ヨーロッパ&セム系の死生観(1+1=1、あるいは暗喩としての蝋燭)とは対照的である。
 ・・・さて、これだけだと、なぜ人身供犠が要求されたのかが不明であるが、そのヒントが、「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」にあると考える。
 それは、「原母」=「地母神」の死(あるいは殺害)というプリクエルのことである。
 つまり、(生命を生み出す)「原母」が死んで(あるいは殺されて)不在となったため、それを呼び戻すために、原母が眠っている「土」に、代償として生命を捧げるというわけである。
 なお、「原母」に恒久的な死がないことは定義上明らかであり、この点はオマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」が明らかに謳っている。
 なんだか、ギリシャ神話のデーメーテール信仰と似ていて面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする