Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

反マスク同盟(2)

2020年12月21日 06時27分46秒 | Weblog
Coronavirus: What are the rules for face masks or face coverings?(BBC)
 "They help us protect each other and reduce the spread from people who are contagious but have no symptoms, or are yet to develop symptoms."
(マスクは私たちをお互いに守り、また、感染したが無症状又は症状を呈する前の人から病気がひろがるのを防いでくれる。)


 反マスク同盟で指摘したとおり、今年の6月の時点ではまだBBCがマスクの効果に否定的だった。
 ところが、いつの間にかマスク支持派に変わっていたようだ。
 この手のひら返しには驚くほかない。
 
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300年の呪縛

2020年12月20日 06時32分04秒 | Weblog
「夫婦別姓」反対派の主張がよくわからない訳 「古きよき日本」という意味不明の幻想のせい?
 「この問題では「ほかの女性との間で子供を作る男性の正妻は、じっと耐えて家を守っているので、少なくとも自分の子供と婚外子とは相続で差をつけなくては我慢がならない」という「イエ」や「正妻」の立場からの議論というように考えれば理解はできます。間違っていますし、すでに是正もされた問題ですが、当時の反対論は何を根拠にしていたのかはイメージできるわけです。
 ところが、夫婦別姓反対論というのは、その根拠が見えません。例えば、今回の「会」の主張では、「通称として旧姓利用を拡大すべき」としながら「戸籍だけは同姓」にするというのが、「子どもたちの心への影響」にとって大切というのですが、まったく意味不明です。


 17世紀中に日本全国に浸透したとされる「家職国家体制」(簡単にいうと、職業の世襲制)においては、「苗字」(屋号)の承継が制度の核心を成していた。
 戦後の民法改正によってイエ制度が解体されたと思いきや、現在も社会の隅々に「家職国家」への復帰を志向する勢力が根強い。
 そのことは、職業の世襲が当然視される業界がいまだに残っていることからも明らかであり、政界はその最たるものである。
 選択的夫婦別姓に反対する勢力は、「子どもたちの心への影響」を根拠に挙げるらしいが、まともな議論とは言い難く、結局のところイエ制度への郷愁によって動いていると考えるべきだろう。
 「徳川ご静謐の世」の呪縛は、少なくとも300年以上、今もなお続いているようだ。
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企画提案型インハウス

2020年12月19日 06時33分19秒 | Weblog
インハウス弁護士のExit戦略 #LegalAC
 「非管理職と管理職が同一の給与テーブルに載っている会社では、インハウス弁護士のような専門人材はある問題に直面します。
 それは「管理職にならないと、ある段階から昇給しなくなる。」ということです。

 「インハウス専門の兼副業事務所を経営している関係で、若い弁護士資格を持つ方々からキャリア相談を受ける機会が多いのですが、その悩みの一つに「管理職になりたくない」というものがあります。
 「会社がインハウスで弁護士を雇用する意義は何かといえば、事業側の「課題の提起を待つ」のではなく、事業側に「課題を提起できる」専門家がいるということに尽きると考えています。・・・このように、プル型からプッシュ型でコミュニケーションを進めることが「課題を提起できる」働き方と言えますが、これはまさに「管理職」に必要な仕事や能力に他なりません。

 「インハウスをやりながら法律事務所を経営している」という稀有な弁護士の方の指摘であるが、なかなか含蓄が深い。
 私も元サラリーマンなので、インハウス弁護士の「管理職になりたくない」という気持ちはよく分かる。
 管理職になれば、自分のやりたいことに集中できないし、部下を傷つけるような決定(人事考課など)をしなければならなくなることもある。
 だが、こうした姿勢が、インハウスに求められる役目とは矛盾するというところが問題である。
 単なる法律相談であれば、今なら無料のウェブ・電話相談が沢山あるから、外部の弁護士を利用すれば済む。
 そうではなく、雇う側は、インハウスに「専門家の眼」と「経営者の眼」の双方を求めているのである。
 つまり、社内にいるからこそ分かる経営課題を把握・指摘し、解決策を提案してもらいたいのである。
 インハウスになりたいと考えているロースクール生・修習生は、こうしたことをよく考慮した方がいいかもしれない。
 
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二周目

2020年12月18日 06時55分35秒 | Weblog
 来年の東京春祭ワーグナー・シリーズの演目が「パルジファル」に決まった。
 初回の2010年にも上演されているので、ワーグナー・シリーズは「二周目」に入ったのではないだろうか?
 今年4月の「トリスタンとイゾルデ」(上演中止)で、ワーグナーの主たるオペラは全部上演したことになるはずだったので、その後は「ヴェルディ・シリーズ」でも始まるのかと思っていたら、そうではなかった。
 「桜の季節にワーグナー」というのが楽しみになっていたので、この楽しみが当面は続きそうだと安心する反面、来年無事に上演されるかどうかが心配なところでもある。
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緩やかな覆い

2020年12月17日 06時28分42秒 | Weblog
アメリカの政党政治 建国から250年の軌跡(岡山裕 著)
 「大半の州では、州レベルの裁判所の裁判官も選挙で選出され、その候補者も所属政党を持つのが普通である。裁判官の候補者が選挙時に所属政党を明らかにできる州とそうでない州があるが、後者でも実際には候補者の党派が知られることが多い。」(p12)

 岡山教授は、政党(端的には二大政党制)はアメリカ政治を「緩やかに広く覆うテント」であると指摘している。
 裁判官が選挙によって選手されることは驚きだが、所属(単なる「支持」ではないことに注意)政党を持っているというのはさらに驚きである。
 これは到底日本では考えられない。
 もっとも、政党の性格が日米では根本的に違っており、アメリカの政党は「憲法が分けたもの(諸機関)をつなげるわけではない」し、政府内にも政党内にも、日本の首相のように政治全体を見渡し、指示を出せば他の主体が従うような、権力核を構成する主体が存在しない(p26~27)。
 要するに、枝分節原理(segmentation)が徹底して排除されているのである。
 これは、中国共産党などと対比すると分かりやすいのではないだろうか?
 
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反社認定(4)

2020年12月16日 06時14分34秒 | Weblog
「赤木ファイル」存否示さず 近財職員自殺訴訟で国側
 「学校法人「森友学園」の決裁文書改竄(かいざん)問題をめぐり近畿財務局職員の赤木俊夫さん=当時(54)=が自殺したのは財務省理財局長だった佐川宣寿(のぶひさ)氏に改竄を強いられたのが原因だったとして、妻の雅子さん(49)が国などに損害賠償を求めた訴訟で、生前に赤木さんが改竄の経緯を記録したとされる「赤木ファイル」について、国側が存在を明らかにしないと決めたことが2日、分かった。

 岡口裁判官による「反社認定」が確定するかどうかが注目される事件(反社認定(2)反社認定(3))。
 予想されたことではあるが、「赤木ファイル」の存否を明らかにしなかったという国側の不誠実な対応によって、岡口裁判官による「反社認定」は確定したといっていい。
 「親分を守るために子分は犠牲にならなければならない」というのは枝分節集団特有のロジックだが、ある意味では、裁判という場においてもこれが維持されたのではないだろうか?
 つまり、「財務省(親分)を守るために子分(法務省・訟務検事)が犠牲になった」というわけである。
 
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ペット、料理とガーデニング

2020年12月15日 06時57分17秒 | Weblog
生後2か月の子猫の1日ルーティン【短足マンチカン】
家に帰ったらすき焼きがあるドッキリ

 「それから」の主人公:代助は、木庭先生によればEpicurean(エピキュリアン、エピクロス主義者)であり、それゆえエピキュリアンにつきもののガーデニングを趣味としている。
 エピキュリアンが追求するものを分かりやすく表現すれば、おそらく「癒し」であり、ガーデニングはその一つなのである。
 ところで、上に挙げたのは、子猫(寝姿など)と大学生(料理など)の日常を描いた動画だが、こうした動画を好むのは、おそらくエピキュリアン的な傾向を持った人たちが多いと思う。
 だとすれば、ペット、料理とガーデニングをミックスすれば、最強のエピキュリアン動画ができ、(下品な言葉だが)儲かるYoutuber になれるのではないだろうか?
 例えば、パーカーさんと同じようなエピキュリアン的な性格のはんてんを羽織った老人が、子猫と戯れつつ、料理を作ったり、盆栽をいじったりするという「はんてんチャンネル」などはいかがだろうか?
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信頼が壊れるとき(6)

2020年12月14日 06時08分22秒 | Weblog
 「三千代との結合はéchangeの究極型であり、échangeを拒否する連帯と真正面から衝突する。しかるに、まさに「一人の女をめぐって友と激突する」:このパラダイクマは凡そ社会組織の原点ではなかったか。・・・平岡が三千代を押さえ、その上から代助が押さえ、結果平岡と代助は曖昧かつ重畳的に三千代を押さえている。この関係が切断されなければならない。切断されていないことを定義上不自由という。平岡はその押さえ合いのために三千代を犠牲にしてきた。逆に重畳解体つまり一義性は取引不可すなわち掛け替えのないという感覚を生む。三千代の解放である。そして、ここが解放されて初めて代助と平岡の間には真の友情が生まれる。つまりその前には一義的でなければならず、一義的たるためには一切妥協なく争わなければならない。」(木庭・前掲p119)

 目の覚めるような文章で、まるで漱石が自作を解説しているかのようである。
 ここでは、échange全般が悪というわけではなく、échangeの究極型である「三千代の請け出し」は代助-三千代-平岡にとっての自由の前提であり、échangeを切断するéchangeであって、それに際し一切妥協は許されないという点がミソである。
 これに対し、ノーベル文学賞や社内における地位のように、代替性のある対象であれば、私見ではあるものの、いったんこれを獲得した後で友人に(クリエンテラを目的とするのではなく)譲ることは、あってもいいと思う。
 もっとも、その友が、ジジェク流に受け取りを辞退することが条件である(遠慮なく受け取るようであれば、それは真の友ではない。)。
 さて、翻って、川端がどう対処すれば良かったかを考えてみると、判定者であるノーベル文学賞選考委員会が、「川端と三島で話し合って決めてくれ」ということ自体が、自分の職責を放棄しているわけであるし、échangeをそそのかしているようでもあり、おかしな話である。
 したがって、川端としては、「ギリシャ・ローマの古典文学すら理解していない選考委員会にノーベル文学賞を授与する資格はない。よって、私は受賞を辞退する。三島君、君はどうするかね?」という風に、投げかけてみるとよかった。 
 そうすれば、三島は、次のように答え、川端はそれにこう応じて、麗しい友情が続いていたのかもしれないのである。
 三島「全く同感です。私も辞退します。但し、故人ではありますが、谷崎潤一郎先生に賞を授与するよう、選考委員会に進言してみるのはいかがでしょうか?故人が相手であれば、échangeとの誹りも受けますまい。」
 川端「そうだね、私も大賛成だ!」
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信頼が壊れるとき(5)

2020年12月13日 06時12分44秒 | Weblog
憲法9条へのカタバシス(みすず書房、木庭顕)
 「この小説はミステリーであると述べた。実はミステリーの中のミステリー、ミステリーを創建したとされるSophoklesの『僭主オイディプース』を鮮やかに踏襲するものであった。つまり聡明な糾問官が精緻に捜査すればするほどますます犯人は自分であることが動かせなくなっていく。何の罪か。友情をそれと正反対のものと混同した罪である。これはただのclientelaであり、庇護者気取りの親分風であり、押し付けた物に譲渡担保を設定し債務者を縛り上げる債権者に似た行動であった。要するに父や平岡と同根であった。「胡麻化し」の正体がついに明らかになったことだけは疑いない。」(p114)。

 代助にとって三千代はかけがえのない恋人であり、しかも彼女とは相思相愛の仲だった。
 にもかかわらず、代助は、「義侠心」から「友情」を優先させ、三千代を平岡に譲ってしまうという、漱石がいうところの「自然」でない行為に出る。
 しかも、ここで行われた「胡麻化し」に、代助自身が気づいていないのが致命的で、これがこの小説における最大の問題である。
 木庭先生によれば、何のことはない、「英雄的な義侠心」と思ったものは、単なるクリエンテラ(要するに、平岡に対するマウンティング)であり、三千代はそのための道具(échangeの対象)にされてしまったのだった。
 問題は、これに代助(及び江藤淳を含む多くの文芸評論家)が気づかないことであり、「超自我の声」に騙されていたということである。
 なお、柄谷行人は、新潮文庫版の解説(p299)において、フロイトを援用して「無意識の偽善」という言葉を用いているが、「義侠心」は外部(社会)から来ているはずなので、超自我による抑圧とみる方が適切と思われる。
 こうした「『英雄的な義侠心』、『崇高な自己犠牲』などという仮面を被ったクリエンテラ」は、日本社会の深部に潜むウイルスのようなものである。
 これと比べると、川端の三島に対する「庇護者気取りの親分風」は、あからさまではあるが、その分自覚的であり、病気としてはまだ軽いのかもしれない。
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信頼が壊れるとき(4)

2020年12月12日 06時23分35秒 | Weblog
 挙げられた例は、単なる「譲り合い」ではない。
 ジジェクは、「自らの欲望の上で譲らない」ラカン派の哲学者らしく、まず、友人との間で「はげしい競い合い」が行われることが前提となっている。
 それでは、その結果として獲得した対象(社内の地位)を私が辞退し、かつ、友人も辞退するという「象徴的な身振り」によって生まれる「連帯関係」は、果たして本物だろうか?
 そこで、対象を、社内の地位のような人間ではない・代替性のあるものから、代替性のない人間、例えば、一人の女性という風に変えてみる。
 夏目漱石の「それから」において、「(主人公の)代助は、・・・かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく」(新潮文庫版・解説より)。
 物語が始まる前に、主人公は自分の恋人を友人に譲っているが、ここで échange が問題の発端であることが分かる。
 しかも、それは、自分の本心を「胡麻化す」という形で、いわば「超自我による抑圧」の発現としてなされている。
 ストーリーは、三千代との再会後、この「胡麻化し」が暴かれていくことによって展開する。
 この小説のキーワードは、「胡麻化し」だろう。
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