パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

自粛するという判断について

2016年01月09日 08時17分17秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

世の中には本当にいろんな人が いるもので
ある人は(少し変わってる人かも知れない)町長の時代に

リコール署名運動につき、町職員が私は公務員だからと言って
署名に応じない口実に公務員の身分を使う事についても、町長の通達として禁じた。

普通の町民と同じように署名に賛成なら署名し、
反対なら拒否すれば良い。反対の理由に公務員だという身分をひけらかす必要はない。
 

と公にしたようだ
法律的には当たり前のことをわざわざ通達した
というところに、この問題の難しさがある

署名する、しないは個人の判断なのだが
その個人は社会のなかの一人
現実に生活をしていくうえでは、雇用、仕事の受注関係での
上下関係が存在する
(契約社会で平等であるはずといっても現実には意識の中の
 上下関係は捨てさることができない)

個人の判断で行えばいいというが、果たして現実的に可能なのか?
それを意識・覚悟してできる人がどれだけ(日本に)いるのかを
考えてみると、残念だがそれほど多くないように思われる

いざ自分がその立場になったならば
軟弱な自分は、どう考えるか分からないことを認めるとして
それでもどこか違和感を持つ事柄

何をごちゃごちゃと分かりにくいことを
言っているかといえば、現在行われている市長リコールの署名活動において
この様な問題がいたるところで見られているからだ

市職員だから、市と関係ある仕事をしているから、市と取引があるから、
そしてその家族だから、、、
法律的にはどんな人でも個人の判断で行えなば良いことになっているが
目の前の現実は、上にあげた理由で「自分の判断行為の思考停止」を行っている

自分はこの様な判断する人を責めているわけではない
人間はそんなに強くないし、自らの今を守りたい気持ちもわかる
だから、
「どうか自分の生きてきた上で培った判断力を行使してほしい」
「考えることをやめて自動的にある選択をするということはやめてほしい」
と願うだけ
(なにかSEALDsの誰かの発言に似てきたぞ)

ある意味では、少しばかり不誠実なチラシを折り込み続ける
市長リコール反対の人たちのほうが
自分の判断基準を(我々と違っているとしても)持っている

本当の一番の問題は、賛成派でも反対派でもなく、
自動的に判断をして(自分に得か損か無意識に判断して)
それが良いことか悪いことかということまで考えないことや
全くの無関心層の存在
そして残念ながらそういう人のほうが圧倒的に多いと思われること

個人としてではなく、組織の一員として知らず知らず判断する
こうした傾向が、新城市に多いのか、日本に多いのか
具体的に比較したこともないし、資料も見つからないので
勝手に想像するだけだが、仮に日本やこの地区だけの特徴だとしたら
それは問題だ

個人の判断、言うの簡単だが、
今まで誰かの示す方向に従順に従って生きる生活を続けてきたひとに
さあ、今からお前は自由に判断すべきだ、それがお前自身の人生だ
などと突然言われたりもしたら、多分人は混乱するに違いない

自由とか個人 
その自由の不自由さはフロムの「自由からの逃走」に扱われている
結局のところ、人は自分で判断はしたくないのかもしれない
責任を負うなんてまっぴら
こんな風に最後まで生きられるのならいいのだが、生きている間には
必ず自分と直面しなければ 状況が現れる
そこで自分での判断を否応なくすることになるのだが 
そこでの判断を間違ったもにしないための訓練が必要となる
多分この訓練というものが西欧では教養とかリベラルアーツというものに
相当するものと思われる

話はいつもの様にあっちこっちに飛んでしまったが
本当に今願うことは、置かれた状況下の自動的な判断ではなくて
確かに自分がこの様に判断した
といえる確固とした選択をして欲しいということ
それがどのような判断であっても 


 




 

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