パンセ(みたいなものを目指して)

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新城市長リコール署名がスタート

2016年01月07日 07時52分36秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

「最後に注意事項ですが、署名活動で訪問した際に
 次の市長は ●●を推していますが、よろしくお願いします
 といったようなことは無いようにしてください
 選挙違反になります」

これは昨日、「新城市長穂積亮次解職請求代表者証明書」
が新城市の選管から手渡された時に発せられた言葉
そういうもんなんだ!
とつい聞き流していまいそうだが、よく考えなければならない問題だ

前々から「市長リコールを求める会」は現市長が市の行政遂行者として
的確かどうかを問うために行動を起こしている
しかし、各種の会合で市長派と思われる人物や市長自らも
リコールを求めるならば、その対案としての人物(市長候補)を
明らかにしなければ無責任だとの声が上がった

だが、もし対立候補を設定してしまったら法律的に困ることになる
リコール署名活動は戸別訪問ということになる
もし対立候補がでているとすれば、話は必然の流れとして
「次は誰になるか?」となり、その対立候補を薦めるのもごく自然の成り行き

ところが、それは公職選挙法の戸別訪問の禁止
(選挙運動期間中だけでなくすべて政治活動のおいて禁止) 
にひかかってしまう
つまり、市長候補を設定してリコール署名活動をすると
大量に選挙違反をしてしまう可能性があるということになってしまう

だからこそ、市長リコールの運動は、市長候補を設定しないで
単に市長としての可否を問うのが正しいこととなる

話はいつもの様に飛ぶが、市長は対案を出さずに
リコールを求めるのは無責任だというが、
市長は市民に対案を出すことを要求しているのだろうか
市民が政治家のような存在になることを要求しているのか
はたして市民にそこまで要求していいものか

現実には市民にできることは選挙で市長・議員を選ぶことしかできない
そして手に入る情報も市長や議員さんとは雲泥の差
その市民に対案を出せといっても、それが正しい理屈なのだろうか


責任があると簡単に言うが、
現実には市民に持つことができるのは「覚悟」ではないのか
市長リコールを選択するにせよ、しないにせよ
市民は責任を負うというより覚悟を負うということではないのか

実質的に今日からリコール署名運動が始まった
新城市民は市政のことを考える良いチャンスになると信じたい

それにしても、もう忘れてしまっているかもしれないが
自分は住民投票の時の、あのとんでもなく分かりにくい選択肢を
実行してしまったことへの不信感がどうしても抜けだせないでいる
(この不信感が幾つもの分野に広がって、
 現状を良しとしない判断をせざるを得ないことになっている) 

 

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