パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

宗次ホール「イェルク・デームス ピアノリサイタル」

2017年05月04日 08時29分49秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

音楽家と宗教家は長生きすると言われている
この日の主役イェルク・デームスは88歳、日本で言えば米寿
母と同じ年齢だ 

74歳のポール・マッカートニーが相変わらずお茶目でパワフルなのと
同じように、名古屋宗次ホールで行われたリサイタルも
年齢を感じさせることはなかった

と言っても、足元は機敏というわけではなく肥った身体をノッソノッソと移動する感じで
昔見たチェリビダッケの指揮台まで歩く姿を思い出した
(あのときは、歩くシーンから静寂という音楽が始まっていたような気がした)

ところが演奏を始めると本領発揮
(ちょっとミスタッチもはあったけど自分は気にならず集中して聴けた)
弾き始めて何よりも驚いたのはその音色
なんと表現して良いのかわからないが、優雅で品があって余裕があって
今までこの会場(宗次ホール)で聴いていた音の記憶と違う
ピアノが今までと違うのだろうか、、、と疑問に思ったほどで
前半が終わった時点でピアノを確認すると、いつものスタンウェイ
何故、今回だけこんなに音色に気になるのか、、不思議な気がした
人間のすることだから同じ楽器でも出す音が違う、、、
と簡単に言ってしまえないほど印象に残った

プログラムはとても良い(自分好み)

バッハからモーツァルト、そしてベートーヴェン、ついでドビッシーとフランク
鍵盤楽器の音楽の表現の変化(その方法と内容)を比較できる
バッハの単一主題からの職人芸的な音響空間、時間の作り方
モーツァルトのホッとするような楽器間が歌うようなやり取り
ベートーヴェンのいい意味での効果を狙った心理的も必然性を感じる流れ
ドビッシーの響き自体の斬新さ、

バッハの半音階的幻想曲とフーガは、たまたまウイーン三羽烏のもう一人の
フリードリッヒ・グルダのレコードを昨年手に入れて自然と聴き比べることになるが
演奏比較というよりは、どちらかと言えば作曲者の方に関心がいく
バッハの音楽は音が詰まっている
真面目で定番的な安心感は毎度感じることで
音楽は感覚的(感情的)なものだけではないことを、そしてそういうことがドイツ人は
好きなんだということを改めて感じる

真面目なバッハの後のモーツァルトのなんという自由さと歌の心地よさ
押し付けることなく聞くほうが勝手に想像したり連想しなければ
その楽しみは真に味わえないかもしれないが、本当に無駄なくサラッと書いている
様なところがおよそ人が作ったものとは思えないモーツァルトの音楽
と言ってもケッヘル番号の遅い(K540)のアダージョ ロ短調は感覚だけでなく
もっと考えられて作られていると感じたが
この曲はめったに聴くことのない曲で、その分新鮮に楽しめたが、曲のある部分どうってこと無いフレーズ
モーツァルト特有のフイに淋しさを感じさせる瞬間がホンの僅かだけあって
その刹那、大事な秘密を見つけたようで、そしてそれはとても切なくて思わず涙が出そうになった
イェルク・デームスのピアノの音はこの音楽にぴったりだった

ニ短調の幻想曲はオペラのレシタティーヴォとアリアみたいなもので
(冒頭の美しい分散和音の弾き方を家ではレコードで聴き比べているが)
よく知っているだけに安心して聴けた

この後ベートーヴェンの最後のピアノソナタ32番となった
バッハとモーツァルトは続けて演奏したが、気分的な連続性はベートーヴェンまで
一気に行うと、どうなんだろう、、、という心配は余計なお世話で
モーツァルトを弾いたあとイエルク・デームスは一端舞台の端に行ったままで
(少し音楽的な興奮が収まるのを待って?)聴衆が次の曲への期待がたかまった
と思われる瞬間に、ノッソノッソと現れた

ベートーヴェンの32番のソナタ この曲は大好きだ
だからレコードでもCDでもいろんなピアニストのモノを持っている
しかし、実演で聴いたことはブレンデルの一回だけ
好きな曲となればこうあって欲しいという希望がどうしても出てくる
ブレンデルの音楽は、どうも相性がよくないようで、ピアノの音色が好みではなく
イマイチだったな、、、という印象しかない
 
イェルク・デームスの音色でベートーヴェンはどうか、、、
と少し心配はしたが、なんてことはない大丈夫、余計なお世話だった
特に第2楽章の感動的なこと、、冒頭の変奏曲のメロディはベートーヴェンが選びに選びぬいた
いや無駄なものを削り取って作り上げたシンプルな美しいもので
そこから導かれる変奏曲の中で実現される多様な世界
最後のソナタとあって、エロイカや5番を作曲した頃の充実した中期を連想させるような
充実した音の構築物としての変奏があれば
良いことも悪いことも、、それもまた人生!
と達観したような別の世界にいるような静かな音楽もある
(その前に鐘の音も響いてるような、、、)

本当はこれでこの日は充分で
後半はアンコールのような少し気楽な気持ちで聴いた
イェルク・デームスの音色はドビッシーにはぴったりだった
オーストリア人でフランス人ではないが、ドビッシーの音楽にも結構合うものだ
とそんなことを連想していた時、イェルク・デームスのピアノの出す音色は
ウィーンで地元の仲間の音を(ウィーンフィル等の)聴いているからに違いない
と根拠もない、しかし、きっとそうに違いないと思いが浮かんだ 

いつも身近に良い音を聴いている
ジャンル(楽器)は違っていてもそうして日常から自ずと身につく好みみたいなものが
彼のピアノの音の反映されているのだ、、、
そう思うことでこの日の気がかりは一端解決

生は本当に勝手なことを連想できるから楽しい
今後の予定では次は新国立劇場で「ジークフリート」となっているが
この演奏会で拍車がかかってその前に何か聴きに行くかもしれないな、、
 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする