「豊饒の海」の第一巻は読み終えたので、続く第二巻「奔馬」に挑戦中
やはり時間をおいて読むよりはこうして一気に読むほうが
再登場人物像があやふやになることはないし、エピソードもあの時のことか
と連想しやすい
良いことずくめだが問題はしょぼい目と、気力と集中力
「奔馬」のことは、今日は横において
先日来気になっている「保守」について、、
と言っても自分が保守かリベラルか右か左かわからない
ずっと学生時代からノンポリだったから、そのまま物言わぬその他多数というところ
と自分では自覚しているが、最近の活動や考え方はある人にとっては
偏っている(左っぽい)とのことになりそうかもしれない
ただ、自分では「曲がったことが嫌い、とか筋の通らないことは嫌い」
というだけで判断しているような気がしないでもない
ところで、保守関係の本を読んでいて、常々自分の考えてきたこと
実感してきたことと同じだと思う事がある
それはそれゆえに保守ということにならない基本的な人にたいする考え方だ
保守と言われる人に「ブラウン神父」のミステリーで著名なチェスタトンがいる
この人の「正統について」(だったかな?)を紹介する中に次のような文章があった
〈正気な人間ならみな知っている。自分の中には動物的な一面があり、悪魔的な一面があり、聖者の一面があり、そして市民としての一面がある。いや、その男が本当に正気なら、自分の中には狂人の一面さえあることを知っているはずだ〉
これは正気について考察したところの一説で狂気(人)についても
〈狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である〉
わざわざ取り上げたが、難しく考えると言うことななく、
ほんとそうだよな、、と同意する程度のこと
同じく保守の人にバークという人物がいる
この人の基本的な考え方もなかなか否定し難い
バークの考えを紹介した1文にこんなのがある
偏見は文字通り人が前もって(pre)一定の判断(judge)をもっていることを示唆する。その意味で先入見とも訳すことができる。通常できるだけ偏見を排して物事をみるべきであると言われるが、人間精神はすべてのものでも常にゼロから眺めることはできない。むしろ、多くの対象について、人間はあらかじめ判断して、ある所与の基準から理解する。
その意味で、人は常に中立的な立場から論理的に思考するわけではなく、かなりの程度あり合わせの道具立てで状況に対応する。さもなければ思考に時間がかかりすぎて、変化する多様な環境に適応できないからである。
人間の思考とは、長い時間をかけて斬新的に発達したものであり必ずしも合理的に設計されているわけではない。このように考えるバークにとって啓蒙思想家たちはひとたび偏見や迷信を打破すれば、後戻りすることなく理性がおのずと支配的な地位に立つと考えた点で、根本的に誤っていたのである。
なんとなく、両者とも楽観的な未来を信用していないということだ
未来を無条件に明るいものと信ずるか
心配してブレーキをかけないといけない面もあるのではないか
そのスタート点が、後の人の選択に関わってくる
日本人は面倒なことを考えることが好きではないから、この部分は無視して
なんとなく世間に蔓延している空気みたいなもので
それぞれがなんとなく勝手に想像してあれこれ言うから
いつまでたっても議論が噛み合わない、、、みたいなところがある
結局海外の文化や思想を取り入れると言っても
西欧人のしつこいくらい厳密な思考過程を本で知ることになると
日本人の態度はあまりにも淡白、感覚的、としか思えない
(もっともそれが全部が全部悪いこととも思えないが)
GW最終日、昼と夜にちょっとした予定あり
その前の、いつものようにまとまらないお話、、