偶然に良い言葉と出会った
「Youは何しに日本へ」という番組のなかで、出演者のアメリカ人が自分のプロフィール写真の背景に写った言葉が
ある機会で知り合った女性のプロフィール写真の背景にも全く同じ言葉が写っていたので、何かしら運命的なものを
感じたということだが、その言葉がなかなか気が利いている
それは
The world is a book, and those who do not travel, read only one page.
(世界は一冊の本だ。旅をしない人々は本を一ページしか読んでいないのと一緒だ。)
調べてみると、アウグスティヌスの有名な言葉らしい
旅をするということは、書物では感じることの出来ない匂いとか生活感とかその場所の秩序とか
人々の共通の価値観とか、、、そうしたものを一気に全体的に実感として感じることができる
自分の住んでいるところを離れて遠くに出かけると、人はその違いに驚きを覚える
物見遊山としてでかけたとしても、そしてそれが外国であった場合には特に新鮮な驚きとなる
そして知らず知らず、自分の住んでいるところとの比較を行ってしまう
それが単純に比較であるうちは良いのだが、知らず知らず「良し悪し・上下」の評価を行うまでとなる
明治から昭和にかけてヨーロッパにでかけた人たちは、先進国の文化・インフラ・生き方に大きな衝撃を受けた
そこには学ぶべきもの、直ぐに真似る価値があることが幾つも存在する、
これらに比べると我が国は、、、、と自国の遅れている部分を否応なしに自覚せざるを得なかった
(自分がまだ若い疾風怒濤の時代、そして日本が経済的に沈むゆくヨーロッパよりも優位にあった時
後先考えずに放浪の旅へでかけたが、その時感じたのは、日本が経済的に第二の国だと言われているが
街中に電柱は立っているは、水洗トイレはないは、バカンスの休暇をしっかり取れないは、、で
実は全然これらの国に追いついていない、、どころか、完全に遅れているし、果たしていつか本当に追いつけるのだろうか
との思いをもった)
外国との比較が肯定的に今後自分たちのなすべき指針となればそれは問題がない
ところが、西欧の文化とかシステムに圧倒されて自国に自信を失ってしまう様な性格の人は
次はどの様な行動を取るか、、、といえば、多分無理矢理にでも自国の優れているところを探す
そしてそれを見つけて安心感に浸りたいと想うようになる
この国は歴史がある、、独自の文化がある、、家族を中心とした精神的なつながりを大事とした生き方がある
そしてはこれらは世界に誇るべきもの、、と声を大きくあげたくなる
このあたりの感覚は、実は昨年読んだ「天皇機関説事件」の中にもそれとなく触れられていたが
現代の日本の中に馬鹿にできない存在となりつつある「ネトウヨ」なる存在は、この様なメンタリティの
人々ではないのか、、、と思ってしまう
話は飛んでハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(2)では、自国からあぶれたちょいとばかりならず者が
未開地(アフリカ)にでかけた時の反応が紹介されている
彼らは肌の色がぜんぜん違う人に直面し不安を覚える
彼らは自分たちと同じ様な考え方を持つ人なのか、果たして言葉や感情が通じるのか、、
そうすると残念なことに彼らは色の黒い人々を勝手に「遅れた人々・下等な人々」と決めつけ
自分たちは彼らをコントロール(支配)できる立場にあると考えるようになる
つまりは自分の頭で理解できないことは、無理やり現在の自分の頭で理解できる概念に当てはめようとする
そこには「彼らの中には彼らなりの秩序や理屈、文化があるかもしれない」といった考え方は全く存在しない
現在すぐに「反日」という言葉を用いて、何かと区別したがり
自国のまずいところは見ないようにして、反対にここがすごい、、と安心したがる人びと
彼らは本当に「一冊の本」を読んでいるのだろうか(世界を把握しているのだろうか)
比較した上で、どの様な地域にも独自の秩序だった生き方があり、幸福という視点からは
なんら区別できるものではない(確かに経済的な格差があり、その影響は無視できないが)ことを
受け入れるだけの余裕がないように思えて仕方ない
人には人の、その国にはその国の良さや秩序があるということ
旅を重ねると「世界はみんな同じだ、人はみんな優しくて、家族が大事で、子どもが好きで、、」
との結論を抱く人が多い
長く生きて得た結果が「自分たちは凄い!」と言うより「みんな同じだ!」と思えるほうが幸せだと思うけどな
ということで、相変わらずまとまりのないグダグダ話、、