本は読むタイミングがある
自分で本を選んでいるようでも実は本の方が読み手を選んでいる
と思えて仕方のないような事がある
関心はあったものの読みこなすには経験不足・知識不足で残ったのは読み終えた実感だけ
そんな情けないことは(自分にとっては〉珍しくない
読んだはず(最初だけ)だがよくわからず、積読(つんどく)だけになっていた本
それでも、このままではもったいないと読み返したのがこの本
タイトルの「超国家主義の論理と心理」の章は相変わらず読解力のなさで、もやもやしたものが残るにとどまっていたが
次の「日本ファシズムの思想と運動」「軍国支配者の精神形態」の章は最近のこの国の出来事を彷彿させとさせる内容で
グイグイと引き込まれた
特に「軍国支配者の精神形態」では東京裁判での被告の答弁が紹介されており、それが最近自分が気になって仕方ない事柄
「責任と判断」「立場上の職務を行っただけで責任は存在するのか」「官僚として行うべきこと」、、等に
関連するように思われた
そして、この責任の所在が結局はわからないような、誰かよくわからないものが推し進めて、決まってしまった以上は
その立場立場で円滑にこなしていくだけ、、、といった(西欧人には)詭弁とした思えないような答弁(態度)は、最近の国会の答弁を連想させる
冷静な著者は、東京裁判での被告の答弁が、そもそも東京裁判はまともなものであったかという点と
その時点での答弁が、一種特別なテンションで行われた可能性があるので、割り引いて考えることも示唆しているが
それでも大枠の捉え方に影響を与えているほどではない(としている〉
外国の人間は、日本人が開戦前に冷静な分析(兵力・資源)をすれば、無謀な判断は行わないと結論付けられるはずなのに
また、そうした行為をするのは支配者の相当な覚悟(意志)が存在するはずなのに、日本は結局誰が判断したのかわからないまま
奇妙な精神主義で突っ走ってしまったことへの疑問が拭い去れないようだ
そして、この誰かわからない何かが、世の空気を推し進めてしまった事柄が、もしかしたら現在でも起こりうるのではないか
という不安を覚えてならない
現在の日本の世の中は、一部の熱心な狂信的な愛国者とか、それに反旗を翻す人たちがいるが、圧倒的に多いのは無関心層
無関心層は「自分たちはどちらにも属していないので常識的に・冷静に間違いのない判断を下せる」との思いを持つようだが
現実には、この無関心層(オルテガに言わすれば「大衆」)はどうもそれほど有効な機能をもつ存在ではなさそうだ
ハンア・アーレントは全体主義の起源(3)の中で、少しばかり怖いコメントを残している
全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。
その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。
ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。
全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。
話は逸れたが、こ丸山真男の本の中には「天皇機関説事件」とマックス・ウェーバーの官僚についての記述がある
捉え方の深さに数段違いはあるものの、自分の感覚と近いような気がしているし、この分野に関心を持てば、やはりというか当然扱うべきことなのだろう
物言わぬ大衆、我慢とか忍耐ではない無関心な人たち、ことが起きれば自分たちは馬鹿な判断はしないと思いこんでいる人たち
自分自身の考えが、実は自分自身からではなくて何かよくわからないものから導き出されてしまっていることに気づかないひとたち
決まってしまったことにたいしてそもそもと疑うこともなく、打開策のみを考えようとする人たち
失敗を繰り返さないために記憶力とか歴史の証拠があるにもかかわらず、少しばかり面倒だからといって歴史に目を閉ざす人たち
でも、正直なところ、こうした存在は、、、ある程度仕方無いのかもしれない(国別で差があるのだろうか)
井上陽水の歌にあるように「傘がない」方が大きな問題より大事と考える庶民の気持ちもわかる
だが、それらを認めた上で、いま漠然とした不安を拭うにはやはり主体的に、
「ならぬことは、ならぬものです」と言い続けるしかないとも思う
現在の国の状況は「戦争と新聞」「天皇機関説事件」等を読んだ身には、とても不安に覚えて仕方ない
ほんと、困った状態だ、、
不安を感じる人、不安を感じない人、、、その差は性格だけではない時点に来ている思うのだが、、