パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

直感による把握(藤圭子とフルトヴェングラー)

2019年07月27日 09時40分57秒 | 音楽

宇多田ヒカルのお母さん、藤圭子の歌う「乱れ髪」をYoutubeで見た
コメント欄にも書かれているが、うまいな!と感じる
(うまい!が適切な表現か疑問だが)
歌が始まった瞬間から独自の世界が現れる
あの独特な声の伸びも美空ひばり並みで味わいがある

Youtubeの良いところは、他の人が歌うのを直ぐ様比較できること
早速手当たり次第に探してみると
作曲した船村徹の歌うものやら森昌子のも見ることができる
船村徹のは彼の年齢から来る味わいも好感をもった
森昌子は「うまい」とか「丁寧に技術的・効果的に歌ってる」と感じる

比較して初めて分かるとか感じることがあるが
藤圭子の歌の直ぐに感じる「直感による全体の把握」の印象は
他の人にはなかなか感じられない
他の人は分析的・心情に寄り添っての捉え方(のように感じる)

話はいきなり飛んでクラシック音楽の指揮者に移る
自分が二度もお墓参りに訪れたカラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者フルトヴェングラー
この人の演奏は藤圭子の歌の印象に近い
音楽は大づかみに把握され、それが紛うことなき直感に支えられているような
フルトヴェングラーは作曲もしているので、作曲技術の分析的な把握はできているが
演奏は分析の結果成り立っているというより、もっと別の、やはり直感というしかない
ものに支配されているような気がしてならない
そしてそれは誰にも真似はできない
天才とは(天賦の才能)とはこういうものだとつくづく感じてしまう

もっとも、このように感じる事自体がかなり個人的な捉え方で
これが一般化されることはないのかもしれない
でも、本人はこの考え方が気に入っている

フルトヴェングラーは過去の人になりつつある
ドイツ人でもフルトヴェングラーを知らない人は多い
ハイデルベルク駅の観光案内所で「フルトヴェングラーのお墓のある場所はどこですか?」
と聞いたことがあったが、若いスタッフは「フルトヴェングラーって誰?」といった表情をした

これはとても残念なことだが、時代はその求める精神も変わってきているかのようだ
フルトヴェングラーの深い洞察力と音楽への没入
そうしたものは、もはや求められていないかのように思えてしまう
でもだからこそ、一旦知ってしまった彼の魔術のような音楽に身を委ねて何かを
感じたいと思ってしまう

でも彼の演奏は、何度も気楽に聴くというタイプの音楽ではなくて
その気になったとき、まるでコンサート会場にいるかのように集中して聴くほうが得られるものは多い
(おととい、何年かぶりにブラームスの3番のレコードを引っ張り出して聴いてみた
 彼としては評判の演奏ではないが、それでもとても面白かった)

 

コメント
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