音楽は繰り返し聴くのに、本は繰り返し読まないのは何故だろう
要する時間が全く違うのは大きな理由の一つと思われるが
簡単に読める詩歌などでもめったに繰り返し読むことはない(自分は)
詩歌は短いものは覚えてしまって本を開くまではないこともあるが
覚えている、覚えていないはあまり関係無いような気がする
音楽は覚えているが、それでも聴くという場合が大半だからだ
すると、脳の快感を感じるところが音楽と読書は違うのかもしれない
音楽を繰り返し聴きたいと思うのは、普段は出番のない感情をゆり動かされるとか
音楽に刺激されてあれこれ思い浮かべるとか、単に心地よいためだと思われる
自分に限っては音楽は言葉がない方が面倒くさくなくて良い
歌とかオペラとか宗教音楽は歌詞があるし、ロックやポップスも
歌詞が大きなウエイトを占めるが、自分はいつもそうしたものを無視して
音楽だけを聴いて満足することが多い
音楽に身を任せて感じること、連想だけでなくフト気づく音楽の構成とか
ちょっとしたアイデアとか、楽器間同士の対話とか、そうしたものが
妙に心地よい
(長い交響曲ではこのフレーズは主題の変形なのかと不意に気づくことがあり
それが満足感を感じることがある)
音楽は、音楽で考えるとか感じるということが面倒くさくなくてい良い
というのが自分の音楽に対する向かい方
この自分の傾向は、世の中にはいくらかの割合で存在するらしい
数年前読んだブルデューの「ディスタンクシオン」では
学歴、所得、就業形態、社会的地位など属性と趣味(好み)の傾向を
膨大なアンケートをとって調べた結果が記されていたが
そこでは音楽が「くるみ割り人形」を好む層と「春の祭典」を好む層
具象的な肖像画を好む層と抽象画を好む層
映画でもストーリーを楽しむ層と俳優さんの演技を楽しむ層に
分かれていることが明らかにされた
それらは接する機会の多い少ないが好みに影響している
と結論づけられている
しかし、周りの環境ばかりではないような気もする
田舎に住む自分は音楽的に恵まれた環境ではなかった
ただある時、特別な体験をしたことがきっかけだったに過ぎない
この体験はいつか記すとして、話を今度は読書に変えると
読書している時の快感、何度でも読書しようとする理由はいったいなんだろう
読書はあちらから世界がやってこない
文字情報から自分の頭で想像の世界を作り上げねばならない
その想像の世界は個人だけが作り上げている世界で、
その世界のほうが映画などに実写化された世界より良いと思う人は多い
結局のところ、音楽も読書も頭の中で起こっていることの楽しみに過ぎない
と、ここまで来て関西ではオチがない!と文句を言われそうな状態になってしまった
もう少し考えてから取り組むべきだったこの問題
昨日寝床でいろいろ考えていたが、消化不良で始めたからこんなになってしまった
確か齋藤孝さんだったと思うが、難しい本は何故難しいか?(ヘーゲルの本のようなものは)
との答えに、著者も書いている時に迷って、考えがまとまっていないので
それが難しくしているとの解説があった
全部が分かってスッキリ発表できることに越したことはないが
そうはできないのが凡人
つい最近何回も改訂を繰り返したブルックナーの交響曲の初稿版の
4番を聴いたが、まとまっていないな、、、と第一印象
この迷いの多いブルックナーに親近感を覚えてしまう
ホントまとまらない話!