パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

批判について

2024年06月04日 09時37分06秒 | あれこれ考えること

「批判」という言葉が最近目に入る
7月の東京都知事選に蓮舫氏が出馬を決め、記者会見等で「小池都政をリセット」
などというメディアが喜びそうな批判的な言葉を使ったものだから
一部の人からは「批判ばかりしている」との苦情が出始めているからだ

批判ばかりでなく政策論争をしてほしい
という意見は、有識者なり意識高い系の人が口にする

だが、彼らの言うように政策論争とかマニフェストで戦ったとしても
果たして庶民にその良し悪しが判断できるのだろうか?との疑問が残る
そもそも小池さんが訴えた前回のマニフェストの達成率はどのくらいだったのか
それ以前に、そのマニフェストを庶民は覚えているのか

このように有識者とか意識高い系の人たちの意見を、そのまま信じられないのは
そうした場面をかつて目にしたことがあるからだ

数年前、我が市で市長選があった
立候補者は3人、その3人が集まって3箇所の会場で公開討論会を行った
ある会場で見聞きしていた有識者の一人はたまたま自分のすぐ後ろの席にいた
市長と仲の良い彼はこうつぶやいた
「(現職市長の)批判ばかりしている」

これは何故だか今も覚えている
そして何か違う、、とその時から思っていた
(そもそも批判があるからこそ立候補したのに)

選挙を前にしてはいろんな視点から行動と言動がなされる
漠然とした存在である大衆に効果的にメッセージを送る方法は何か?
こう考えた時に方法論として、あえて過激な言葉を選んで対立軸をはっきりさせる
というのはありそうだ
ちょいと品がないといえばその通りだが、抽象的な言葉に想像力を働かす必要のある
マニフェスト絡みよりもずっとわかりやすい
つまりは大衆に訴える方法論としてはこの方法はありうると考えられる

問題は、その戦いのほうが良いとされるマニフェストの方ではないか
こうしたいという単純な希望とかスローガンなら良いが
マニフェストなどという言葉を使うと実現可能性も必然的に問われる
そしてそれはお金の使い方に繋がるが、お金の使い方の良し悪しは
庶民には判断する材料が少なすぎて簡単ではない
そして、そもそも庶民はそんなことをチェックするのは面倒だと感じているのではないか

テレビ新聞は有識者という人々が「あるべき」選挙の方法を語る
だが彼らの意見は専門家の意見であっても一般化するのは実は難しいのではないか

人はほとんど誰もが自分の意見を一般化したがる
そして自分の思いは自分の周りの人に左右される
これは有識者でも学者でも同じだ
有識者の周りには「類は友を呼ぶ」のことわざ通り同じような発想をする人が
集まりやすいし、おそらく経済的な環境も似たようなものだろう

つまりは専門家の周辺の雰囲気とか思考傾向は
必ずしも社会全体の空気を反映していないということだ
だが問題はここからで、「専門家がこう言った」という報道は
うぶな庶民の思考傾向に影響を与える
「偉い人が、事情をよく知っている人がこう言った」
それだけで、鵜呑みにしてしまう人は少なくないと思われる
ましてそれがそれなりの穏便な意見の場合は特に、、、

最近は報道の姿勢とか内容に違和感を覚える番組も少なくない
そこでインフルエンサー的な役割を担う人に
一見まともそうな意見を発言してもらう(彼・彼女は本当に自分の意見のなのか?)

それは偏った見方かもしれないが、現在の世の中はこうしたプロパガンダ合戦の中に
いるかもしれない、と思っていたほうが良いと思う

ということで、東京都からはずっと離れた田舎の(偏屈な?)おっさんが思うこと

とにかく、これ等はプロパガンダの一つではないか?
と疑うことは大事だと思う

コメント
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