先日は政治家に関する書き残したものを紹介したので
今回は官僚について残したものの紹介!
だが、情けないことにどこから書き残したのかメモされていないので
出典がわからない(「マックス・ウェーバー入門」か「権力と支配」からと思うが)
それはこんな内容
官僚の世界
まず官僚は規則の拘束の下で職務を遂行し、「非人格的な没主観的目的」----つまり「だれかれの区別をせず」----に奉仕する義務を負う。こうした官僚のあり方は、封建社会における主従関係と対比すると、その近代的社会に固有の性格がよりはっきりする。
封建制度では家来が領主などある特定の一支配者との間に主従関係を結んでいたのである。これに対して官僚の忠誠心が向けられるのは、特定の人格ではなく「国家」あるいは「企業」といった非人格的で客観的な対象である。官僚は、特定の人格に仕える家来とは違って、「だれかれの区別をせずに」仕えることができる。したがってもっとも純粋な官僚とは自動化されたマシンのようなものなのである。
規則に従って事務処理をする官僚制の特徴は、その作業の迅速さと精確さである。かつては名望家が行政事務を兼務していたり、会議によって行われていたりしたために、事務処理には時間がかかり、また精確さを欠いていた。しかし近代社会では専門的に訓練された官僚が、一律の規則に従いつつ作業を分割して処理するために、事務処理は効率的で迅速に遂行される。
官僚は没主観的目的に向けて(だれかれの区別をせずに)事務作業を自動処理する。これは「計算可能な規則」に従って事務処理を行うことを意味する。この計算可能性こそ官僚制化現象の重要な特質である。さらには近代社会を支配する価値観としてウェーバーが抽出したものである。
だれかれの区別をせずに、主観的な判断を入れずに迅速に物事を処理するには客観的な判断基準が必要になる。そのためには、判断基準を定量化・数値化することである。物事を数字で判断とするということは官僚個人の主観的価値判断や感情が排除されるということである。なぜなら主観や感情は定量化できず計算可能ではないからだ。まさに官僚の採用自体が、計算可能な規則に従っている。官僚は、属人的なコネや人事担当者の好き嫌いではなく、試験の成績という定量化された中立的な判断基準に従って、公平に作業されているのである。
非人間化こそが美徳
官僚が中立的で公平な判断基準に従っているということは一般的には望ましいものと考えられている。確かに行政が特定の政治家や政治家集団の利益追求に偏向せず国民全体の利益を考慮するという意味での中立性や公平性は、望ましいものである。しかし、もしこの公平性あるいは中立性が、官僚が一切の主観や感情を交えずに、定量的な規則に従って淡々と事務を処理することだと理解された場合には、どうか。それは官僚を「非人間化」するという意味になってしまう。ウェーバーが官僚制を論じた時に問題としたのは、このことだった。
官僚制が「非人間化」されればされるほど、それだけより完全に、官僚制は資本主義に好都合なその独特な特質を発展させることになる。ここでより完全にというのは、官僚制が、愛や憎しみ、およびいっさいの純個人的な、総じて非合理的な、計算できない感情的要素を、公務の処理から締め出すのに成功するということなのであって、それは官僚制の特性として賞賛される固有の特質なのである。まことに近代文化が複雑化と専門家の度をくわえるにつれて、それは個人的な同情、恩寵、恩恵、感謝の念に動かされる古い秩序の首長のかわりに、人間的に中立・公平な、それ故厳密に、「没主観的」な専門家を、それ「近代文化」を支える外部的装置のために必要とするのである。
ウェーバー 権力と支配から
官僚制的行政は、知識による支配を意味する。これこそは、官僚制に特有な合理的根本特徴なのである。
これらを興味深いと思うか、面倒くさいと思うか
さて