例えば誰かが何か普通じゃないことを(例えば犯罪)起こしたとする
その時出るのが「やはり」と「どうして」
いつのも行動から「やはり」してしまうだろうな と想像がつく人の場合と
そんなことをする人じゃないのに「どうして?」と疑問を覚えてしまう人がいる
特に後者の場合は「何か理由があったのだろうか?」と彼の心情を知ろうとする
話は飛んで、議員さんの議決について
残念なことに新城市では、行政の監視役としての議員さんの役割はあまり果たされていないようだ
首長と議員との関係は、小池百合子さんが言うような「車の両輪」ではなくて
「アクセルとブレーキ」と考えるほうが正しい捉え方らしいのに
(共同経営者としての捉え方もあるらしい?)
議員さんの権限である議決の新城議会の傾向を見ると割合ハッキリしている
とにかく反対の多い議員
案件によっては反対する議員
案件によって反対するのは当たり前のことで、ばらつきがあって当然だと思うが
どうもそうではなくて、この行動をする議員さんは固定化している
ところがいつもなら、同じように反対の意思表示をするはずと思えるような案件に
すんなりと賛成の選択をして、違和感を覚え「何故、反対しないんだ、、」
と不満を覚える議員さんがいる(反対のほうが筋が通っているはずと)
しかし、いつもとは違う賛成の意思表示をした議員さんの人となりをよく知っている人は
「何か理由があるのだろう」と考える
普通ならいつものように反対するのだが、今回はしなかった
あの人がそう判断したのには理由があるはずだ、、と、
あの人がそう判断したのだから、、という前提は、その人への信頼感がある
議員さんは、難しい判断力を要求される場合、無理矢理にどちらかに決めなければならない
その判断の拠り所になるのは、その案件に対する知識等の他に経験や育んできた人間性(があるのではないか)
そして一般人は普段の行動からにじみ出るこの人間性を信頼して彼の選択した判断を理解する(支持する)
現在の政治システムは、難しいことはわからないが、人には人を見る目はあって、それはさほど間違いはないもので
自分たちの目で選んだ人は間違いのない判断をするはずだという前提で、出来上がっている(代議制民主主義)
ところが、最近、これがどうも怪しいのではないか?
本当に人は人を見る目があるのだろうか、、
(でもそれに替わる方法は、、、、)
ところで、新城市の議員さんの行動
議決だけでなく、いろんなところで「やはり」と悪い方の予想が当たるようなことが多い
起きなくても良いようなドタバタが何回も続いている
(政治倫理審査会の開催・懲罰委員会の開催・議会改革の停滞など)
でも選んだのは自分たちだから、、、仕方ない?
人が人を選ぶ4年に1回の出来事
大事な選択を間違えないために、普通の人はどうずれば良いのだろう
もう無益な「やはり」は経験したくない