パンセ(みたいなものを目指して)

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なぜ彼は何も話さなかったのか

2025年03月09日 19時23分13秒 | あれこれ考えること

昨日のドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の大審問官
のエピソードで思いついたことを少し

中世のスペインで復活したキリストと思われる人物は
圧倒的に雄弁な大審問官の言い分を聞かされたが
それに対して何も反論しなかった
代わりにただ大審問官に口づけをしただけだった

その意外な行為に対して、大審問官は決めていた処刑せずに彼を開放した
お前の出番はもうない!、我々の邪魔をするな!
と示唆した大審問官は何もしないで放ったのだった

それは何故だろうか?
と想像すると、大審問官に内的な動揺があったとするよりは
あのエピソードの中で、キリストと思われる人物と小説の中で
論戦をしたならば、小説自体が収集がつかなくなってしまう
とドストエフスキーは考えたからでないだろうか

ああ言えば、こう言う!ということは何にでも起きうることで
大審問官の理屈に反論すれば、それはエンドレスの言い争いになってしまう
だから一旦 多様な想像が可能な無言の口づけという行為で
このエピソードを終えようとしたのではないか(と思う)

しかし、大審問官のエピソードは読み手に強烈な印象を与えるので
それに対し、後にドラマチックなゾシマ長老の人生で語ることでキリスト者擁護的な
バランスをとっているように思われる
(これも結構なヴォリュームがあってゾシマ長老はある時
 キリスト的な愛の概念に目覚めてしまう)

一方、圧倒的迫力の大審問官のエピソードを作り上げたイワンは
後に悪魔との(夢の中で)やり取りをしてしまうような精神的障害を持ってしまう
それはドストエフスキーは、理屈(頭)で追求するばかりでは救いはないと
言っているかのように思えてしまう(個人的な印象だが)

ところで何かで「ロシア人は苦悩を背負う運命にある」
と思っていると見た気がするが、ゾジマ長老はその典型のような人物だ
(人を許したり)

それと比べてプーチンの特別軍事作戦を支持したロシア正教の長老は
伝統的なロシア人のメンタリティとは違うのではないかと思ってしまう
(ゾシマ長老を見習え!とツイッターに投稿したことがある)

残念ながら宗教も結局のところ、権力者に圧倒的に弱い!
というのが、まさにこの時代の現実のようだ

※ところで大審問官のわかりやすいエピソードは
 昨日の投稿の中のCHATGPTの部分を参考に!

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