パンセ(みたいなものを目指して)

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津軽三味線の音楽

2017年03月20日 09時22分42秒 | 音楽

昨日新城市のお寺さんの本堂で津軽三味線のコンサートが行われた

今まで津軽三味線の生の音は聴いたことがなかった
ところが偶然、昨日は2つ続けてまとめて聴ける機会を得た
この画像のコンサートに遡ること3時間前、新城市設楽原歴史資料館で 
「ふみの蔵コンサート」と題する催しで津軽三味線のコンサートが催された

初めて聞く津軽三味線の音はなかなか迫力があった
まるで打楽器のような印象
豊橋にある雅会という津軽三味線のグループの若いメンバーから(小学生)
お年寄り、そしてこの地区の勉強を始めたばかりのメンバーまで
本格的なものやら昭和歌謡をアレンジしたものやら
聴きに来た人を飽きさせない工夫がされたコンサートだった

そこで少し変なことを考えた
津軽三味線の演奏で盛り上がるのは超絶技巧的なところで
左の指と右のバチのその素早さがアクロバチックで、音もさることながら
見ていてもなかなか動かされるものがある
しかし、音楽の迫力とはスピード感とか音量とかそれだけなものか
もしかしたら津軽三味線で一番難しいのはのんびりしたフレーズを
人が感動するような演奏をするのことではないかと思ったりした

そんなことを思いながら、結果的に予習した状態で夕方のコンサートに臨んだ
夕方は黒澤博幸さん一人で、歌も歌いながら進められた
昼間と違っている点があった
それは音量の点、むやみに大きな音ではなかった
そして楽器のせいかどうかはわからないが、こちらのほうが良い音
(潤いのある艶やかな)音だった

そこで先程の迫力という話に繋がるが、黒澤さんの民謡を歌いながらの演奏は
その伴奏がまとわりつくような、絡むような、雄弁という言葉以外にない
一種の迫力のあるものだった
もともと津軽三味線は慰霊のためにもので、基本的には歌と絡むようだが
強く納得する
そしてこの伴奏の雄弁な絡み具合は、シューマンとかヴォルフの歌曲の
ピアノ伴奏を彷彿とさせる
時代や地域が違っても音楽的な効果の狙い方とか美しさの観点は
似たようなのかもしれないとつくづく感じる

歌のない時の演奏は、もともと目の見えない方の音楽で基本は即興
同じものが二度と無い点でジャズに似ていると演奏の合間に解説された
確かに、ジャズと似た印象を聴いていてもった
そしてそのフレーズは自分が日本人なのでジャズの横に流れるフレーズよりも
予想しやすくしっくりした

だがまた変な事を考えた
この即興はとても自由で何でもありで無限の可能性があるように見えても
実は人間には癖とか傾向があっていつか新鮮と思ったフレーズも
以前やったことの繰り返し、マンネリに落ち着いてしまわないか
もちろん同じようなフレーズや癖も、演奏する場所や時間が違うから
同じものとは言えないが、それでも演奏している本人がマンネリを自覚してしまうのではないか
キース・ジャレットがソロコンサートを行い世界的に評判になった時
しばらくはその溢れ出る発想に驚いたが、徐々に慣れ(世間の)と自分自身へのマンネリ(?)で
スランプになったような気がするが、この人たちも同じようなことはないのだろうか

とまあ、聴きながら頭に浮かんだことの妄想
こうした毒にも薬にもならないどうでも良いことが、ポッと頭に浮かぶ事の楽しさ
これは生ならではの出来事 
やっぱり生は良い、普段続かない集中も出来るし、、、
 


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