パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

フルトヴェングラーの不思議な演奏

2025年02月28日 09時31分01秒 | 音楽

指揮者によって音楽の印象は変るのは経験上すんなり認められることだが
それでも、なぜこの演奏だけはそう感じるのかを説明するのは難しい
話は変わるが、テレビで上手な食リポを見聞きしても
想像はできても本当のことは食べてみないとわからない
つまりは当事者が直接どう感じるかを体験するしかない
演奏に対する感じ方もそれに似ていると思う

不思議に思えることの多いのがフルトヴェングラーの演奏
その例の一つはブラームスの4番の交響曲の最終楽章で
この楽章はとても変な楽章で、変奏曲形式で緻密なのだが
いろんな指揮者の演奏は急に終わってしまったと感じることが多い

ところがフルトヴェングラーの演奏だけは終わった!
と実感するのだ
なぜ、これだけがそう感じるのかはずっと不思議なのだが
その答えはわからずにいる

昨日、久しぶりにベートーヴェンのピアノ協奏曲5番皇帝を
フルトヴェングラーの指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
ピアノ エドウィン・フィッシャーのレコードで聴いた
この曲は何となく押し付けがましくて、そんなに聴く気になれないのだが
この演奏だけは押し付けがましさを感じずに聴き通すことができる
押し付けがましいというよりは、イメージと違って楽器間のフレーズの
受け渡しみたいのものがはっきり聞こえて、テンポの揺れだけが注目される
彼の評価とは随分違った印象を受ける

なぜ、これだけがそう感じるのだろう
これもわからない

もう一つ、彼の演奏で最も有名なバイロイト祝祭楽団での第九の演奏でも
不思議な瞬間が存在する
それは第3楽章で、ブルックナーのアダージョ楽章を予感するような
内的で考える楽章なのだが、終わり少し前に金管によるファンファーレがある
その第一回目の時の寂寥感、2回目のファンファーレのあとの神聖な充実した音響は
彼以外の演奏は感じられない
他の演奏は「そう楽譜に書いてある!」とか「こうした演奏の表現方法もある!」
と言った印象しか感じず、フルトヴェングラーの切実な何かとは全く違う

トリスタンとイゾルデの2幕の終わりの音響も、彼の演奏では
とんでもないことが起きてしまった!
と後悔すらも感じさせるものだが、彼以外の演奏では
音楽は単なる音の時間経過でしかない

いろんな演奏を比較するとで、いろんな感じ方を体験できるという
当たり前の事実以外に、それでも何か不思議なものがあるという実感は
自分の中から消えることはない

でもこれは、食べたことのないものをいくら美味しいといっても
それは食べた人にしかわからない感覚で
本質的には通じないのと同じかもれない

フルトヴェングラーの若い時はこのような青年

どこか夢見がちな印象を覚える
(どこかジョン・レノンの若い時に似ている気がする)

この人がもう少し歳を重ねた容貌が

そして晩年のすさまじい演奏姿がこれ(リハーサル風景)
フルトヴェングラー ブラームスSy.4 

この動画を見て人はどのようなことを感じるのだろう

「モルダウ」もフルトヴェングラーの演奏は胸を掻きむしられる気がしてしまう

Smetana: Vltava (The Moldau) Furtwängler & VPO (1951) スメタナ ヴルタヴァ(モルダウ) フルトヴェングラー

 

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