パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

最後まで聴けない演奏

2017年02月16日 09時23分58秒 | 音楽

どうでもいい話!

それほど音楽(演奏)に好き嫌いがある方ではないが(?)
不思議と最後まで聴けないクラシック音楽の演奏(CD・レコード)がある
相性が悪いということになるのだろうけれど、
筆頭は自分と割合似たような思いを持つことの多い人であるアーノンクール
個性的なんだけどゴツゴツしてて(自分は)楽しめない
世間評価は高いけれど、、

次はマレイ・ペライア
昔、通勤時間にしばしばNHKのFMでモーツアルトのピアノ音楽を聞くことがあった
多くは途中から聞く事になって演奏者が誰かわからない状態で
耳を傾けるのだが、「何か嫌だな」とか「この音色は好きじゃない」
と感じて、その曲が終わって紹介された演奏者がマレイ・ペライアだった
これが偶然の一回だけのことかとかといえば、どうもそうではなくて
何度も同じように感じたりする
マレイ・ペライアはモーツアルトの演奏で当時評価されていたけど
どうも相性が良くない

相性が良くないピアニストはアシュケナージ
たっぷりと響く音で、それなりにきれいそうな音なんだが
どうも気持ちがフィットしない
生で聞いたこともあったが、ピアノと対話するよりもピアノを壊すような
感じの印象が記憶に残っている
この人の演奏もFMで途中から聞いていると、何か合わない、、
と思うことがたびたびだ

何か昔の演奏家ばかりだが、最近CDの購入はほとんどしていないからで
録音された音楽を楽しむ手段としてはレコードばかりを聴いているからだ
CDの実験室で録音されたような一見スッキリした音も、何か不自然に思えて
ズシンと響くレコードの音のほうが好ましくなっている
当然今はレコードで発売される新譜はなくて、
(ベルリン・フィル、ラトルの指揮でブラームスのレコードが出た(出る)ようだが
 価格が高すぎて手がでない)
古いものばかりとなる

古いものついでにもう一人相性が良くないのが、日本ではそれなりの評価のカール・ベーム
どうもこの人とは合わない
一番最初に手にしたブラームスの一番のレコードも合わなくて(合わないのが演奏か曲かわからないが)
同級生に譲ってしまった
その後、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」のレコードもすすんで聴けないでいるし
ポリーニとのモーツアルトの協奏曲(19番・23番)もずっと棚に収納されているだけの状態
ベートーヴェンの序曲集のレコードも楽しめないでいて、
ここまで来ると、相性が良くないと確信せざるを得ない

上記三人は時々偏見を直そうと最後まで聴くようにトライするが
我慢できなくなって止めてしまうことが多い 

しかし、なんで合わないのか?と考えるとそれがよくわからない
(もっとも真剣に考えたことなどないけれど)
とにかく世の中にはそういう存在があるということだけは実感する

ところで合わない人ばかり挙げたが、日本の評価は低いかもしれないが
自分が意外と相性がいいと感じるのが
指揮者ではハイティンク(この人のブルックナーの8番 コンセルトヘボウは最高だ)
ピアニストはクラウディオ・アラウ(懐の深い人間性に満ちた音が好きだな)

それにしても、音色の好き嫌いとか、演奏の好き嫌いのあること、不思議だ
なぜ最後まで我慢できないのだろう? 


 


 

 

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ゴッホのひまわり

2017年02月15日 09時41分36秒 | 徒然なるままに

「ゴッホのひまわりを見たぞ!」
と自慢げに人に語りかけたことがあった
その時は「ひまわり」は無邪気にも何枚も描かれていることは知らなかったから
名前だけは知っていた有名なものを見たことを誰かに伝えたくて口にした

しかし、その時はただ有名な作品を見たというだけで、
そのような行為に及んだのでもなかった
その絵を眺めていた時、描かれている茎や花がニョロニョロと四方八方へ
気味悪く伸びていきそうな幻想に陥って、絵から凄まじいエネルギーを感じたのだった
それは美しいというよりは気味悪かった
そして今でもあのときは、そう感じたという記憶がしっかり残っている

ずっと時間が経って(37年後)再びこの絵を見たらどんなふうに感じるのか
とその場所に赴く計画を立て出かけた(4年前)
そこで見たのが

「ゴッホのひまわり」
この様に写真撮影ができる事自体が信じらないが、この場所はミュンヘンの
ノイエ・ピナコテークだ
しかし、写真撮影が許されていることよりもっとびっくりしたのが
「こんな絵だったのか!」 ということ

昔感じた絵とはまるっきり違う
何も今の自分には訴えるものはない
あるのは静物画としての一つの絵
そしてその落差にショックを受けた 

自分は熱心な絵画鑑賞者ではないので、この絵をどのように見て
どのように解釈するのか、そうした専門的な鑑識眼は持っていない
ただ単純に昔見たものとの受け取り方の比較をしたかっただけだった 

正直がっかりした
がっかりしたのは絵への失望と言うよりは、感じられなくなった自分への失望
(かもししれない)
しかしそれは現実だから仕方ない
歳を重ねて失うものもあれば得たものだってあるはずだ
と自分で自分を慰める

でも救いはあるぞ
先日出かけた京都の東福寺の重森三玲の市松模様の庭
これは間違いなく以前見たときよりは良きものとして感じたし
数年前再会した龍安寺の石庭も昔より感動している 

歳を重ねると失うものも多いが、得たものもあるということか
失うものの筆頭は記憶力だが、忘れてしまう能力というのは
もしかしたら案外大事な能力なのかもしれない!と
今は慰めながら 考えるようにしている

 

 

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記念講演会から連想したこと(信長から新城市のことへ)

2017年02月14日 19時42分31秒 | あれこれ考えること

先日の日曜日(2月12日)新城設楽原歴史資料館に
開館20周年 記念講演会の第8回(最終回)に行ってきた
この日の講師は「おんな城主 直虎」の時代考証のお手伝いをしている
静岡大学名誉教授大和田哲男氏
そのせいもあってか歴史オタクが 早くから会場を埋めて
駐車場は30分前に着いたにも関わらず少し離れたところとなった

定員は70名となっていたが、人の息で熱気がムンムンとしていた
スペースがないのでメモするのにも両隣に迷惑がかからないように
お互いが四苦八苦する羽目となっていた

この日のテーマは「長篠・設楽原の戦い 戦国合戦場の位置を探る」
1.長篠・設楽原の戦いはなぜおこったのか
 武田勝頼と徳川家康の抗争
 高天神城の戦いとの関係(天正2年 1574)
2.両軍の軍勢と鉄砲の数 
 両軍合わせて5万はほんとうか
 鉄砲は3000か1000
3.鉄砲の「三段撃ち」をめぐる研究史
「千挺づつ放ち懸け」(『信長記』)
 3挺1組とする解釈
4.「武田騎馬隊」は存在したか
 天正3年5月19日 石川数正・鳥居 元忠宛家康状をどう読むか
 武田軍の軍団編成からの考察

上記のレジュメに沿って行われた
地元のことなのでなんとなく知っていることもあって、抵抗感なく頭に入っていく
しかし、誰かも言ってたが「資料館を出たら大半を忘れてしまう、、、」
というのが残念ながら現実、、、だ

今も記憶に残っているのは2つ
ひとつは設楽原の現場を知る地元の人間として、前回(第7回)の時に
同席した知り合いと「あの場所に何万人なんて無理だよな、、」
と語り合ったことへの学者さんの考えうることの説明
昔の人の大げさな表現は「太平記」では10分の1くらい
として判断することが正しいようで。この場合も大げさに書かれている
と考えても不思議ではないと紹介された
そしてこれは大いに納得がいく話だ

記憶に残っている話の二番目は資料について
鉄砲の数の話では、ある資料によると鉄砲の数は「千挺」
と書いてあったが、そのすぐとなりに小さく「三」の文字が入っていて
それで3000挺という数が世間に言われるようになったとか、、、との話があった
これらの資料のいい加減さ、とは言わなくても自分に都合の良い著述例が
仕方ないこととは言え、真実の歴史を探ることを困難にしている
この自分たちに都合の良い著述の例が他にも挙げられた
それは安土城の建築のことで『信長記』には何ごともなく
すんなり建てられたとの記述があるが
ルイス・フロイスの残した記録によると、大きな石が転がる事故が起きて
180人もの負傷者(死者)がでたということで、なんとなくこちらの方がありそうな
話だと思ってしまう

結局、当たり前と言えば当たり前だがどの時代も
記録を残す立場の人が自分に都合の良い「歴史」を残す
先日マンガで見た「三河物語」も大久保家のお手柄・名誉がメインで
ところどころいい加減な部分があるらしいし、、

そこで話を現代の世界に移して考えてみる
仮に後の時代の人が一昨年来の新城市の「住民投票」や「市長リコール」の歴史を
調べるようなことがあったならば、彼らはどんな資料をもとに判断するのだろうか 
一般的には公文書的な、市から発行されたものである「ほのか」とか「新聞」とか
「議会だより」とかになりそうな気がするが、それだけでは真実の一部しか把握できない
物足りないものとなりはしないか(別に心配してもどうなるわけでもないが)

世の中に漂っている空気とか気分は「公文書」よりも庶民のストレートな感情に
任せたもののほうがより正確に表現しているのではないか
いつの時代のことか忘れたが庶民の「落書き」が その時代を表していた例もあった
この庶民の感情に任せた「落書き」は為政者の都合の良い歴史を批判するものとなる
現代ならば、落書きに該当するのは個人発信の「ブログ」かも知れない
これらは一次資料という範疇に入るのだろうか
ただ、自分も含めて内容は玉石混交、あてになるやらならぬやら
しかし、何か記録したものを残すということは、それなりに意味あるものかもしれない
(と思いたい)



 

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議会改革検討会議 二日目傍聴

2017年02月14日 11時26分11秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

昨日、第2回目の機会改革検討会議の傍聴に行ってきた
懸案の録画撮影については進展なし
(昨日はダメということ)
総意としては「了解」の方向なのだが、考えられる様々な状況への
法的な(?)検討がなされていないので(一週間あったのに)
次回以降に持ち越されることになった
(当然傍聴者からは不満の声が上がった)

議会事務局はフットワークの軽い行動を起こしていた
早速「岩倉市の録画撮影」について調べていて会議の席で発表された
そこでは結果的に議会条例の変更まで及んで、市民による録画撮影を
許可できるようにしたとのこと
実際のところ「議会改革」の具体的な行動というのは、このようなことで
議員さん同士の抽象的な言葉の解釈をあれこれ戦わすのではなく
如何に現実的な、市民に関係するものまで落とし込むか
という点なのだろうと思うが、この点の認識がどのくらい議員さんの間にあったのか多少疑問

議会改革を検討し、新たに条例をつくったり変更しても
それが市民生活となんの関係もなく、専門家としての議員さんの世界だけで
完結しているならば、それは単に議会改革の検討をしたパフォーマンスだけに終わってしまう

議会改革という抽象的な、果たして市民にはそんなものが必要か?
と思われるものを、実生活の感覚の上でなるほど、この様に良くなっていくのか
と感じられるものまで具体化にすることが何よりも肝心と思われる
(どれだけ具体的な方法を考えても、依然として自分にはあまり関係ないと
 感じる人達の存在は消し去ることが出来ないだろうけれど)

ところで、この検討会議に出席するのは選ばれた10名(昨日は欠席2名)
それ以外の議員さんとの共通認識をどのように図るのかとか
会議の報告の段取りなどが話されたが、扱うテーマが議会人に大事な内容となれば
17人のうちの10人でなくて、全員で話し合えばよかったのではないか
そうすれば浅尾市議の懸念する政治力学の不安も払拭されるし
録画撮影の件も結論が出やすかっただろうに、、

昨日は視察に行った報告が何件か例が挙げられた
具体的にはシティズンシップ(主権者教育)の取り組み
しかし、幾つかの例で挙げられた若い人への主権者教育イコール議会改革
と勘違いしてはならないのではないか
(それは多分議会改革の一つの項目に過ぎない)  
確かに報告された若者に対する施策は「議会が中心になって責任持って」
行っているという点では新城市とは違う
新城市の「若者会議」や「女性会議」などは議会が中心になって行っているのではなくて
行政が行っている

誰が中心になってやっていようが、一般人にはあまり関係ない
というところだが、役割を議会の責任とするところに
他市の議会の意気込みみたいなものは感じられる

何れにせよ、議会改革が市民生活とどのように結びつくか
概念遊びにとどまらずに如何に具体化されるかが一番大事なことではないのか
その面では議員さんは言葉のプロとしての視点だけでなく
普通の人の視点も併せ持って会議に臨むことが必要と
素人は思ったりするが、、、さて

ところで頻繁に出てくるパブリックコメントという言葉
「ほのか」にもしばしばパブリックコメントを求める記事がある
しかし、あの聞き方・問い方で果たしてどれだけの人が反応する(出来る)か
大いに疑問が残る
あれではパブリックコメントを発する人もプロ的な人にならざるをえない
市民みんながパブリックコメントに反応するというもの現実的ではないが
もう少し聞き方等には工夫があるべきで、そのことについても議会として
「市民の声を聞く」という項目でどのようにするかを考えて欲しいものだ

ところで、昨日の傍聴人は10名弱
傍聴人がいる時といない時、会議の雰囲気はどのように違うのだろう
多分、いたほうがいろんな意味で良いと思われる
その意味では本会議をサラリーマンが傍聴しにくい平日ではなく
「土日」に開催するということも考えられるが、
果たして議会改革にこの話は出てくるか、、、、

 

 

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NHKスペシャルへのBPO勧告

2017年02月12日 09時00分45秒 | あれこれ考えること

NHKと競合する民放は、(NHKに)自滅的な批判対象事案が発生したので
善人ぶってNHKの不祥事を問い詰めようとしたいところだが
自分たちも似たようなことをしていたので
なかなかそこまで行けないのが最近結果が出たばかりの
「小保方氏への人権侵害 BPO勧告」

過ぎ去ったこととして、もう記憶の片隅にしか残っていないこの事件
人々の記憶にあるのは「STAP細胞はあります」の発言だけかもしれない

実際のところ妙な事件だった
NHKがES細胞を盗んだのが小保方さんと暗に匂わせるようなトーンで進めただけでなく、
(それが人権侵害に当たる部分で、他にも必要以上に追いかける取材方法も問題ありとされた)
民放もある人物が現実に尼崎地裁(だったかな)に
小保方氏が盗んだと訴えたとのニュースを流した
訴えは、最終的にはその事実があったのかどうか疑わしく、却下されたのだが
その却下されたという報道は、起訴されそうな様子を伝える報道よりはずっと小さな扱いで
公平な報道というが筋というものの、バランスの取れたものではなかった
ほとんどの報道機関はその当時世間に溢れていた魔女狩りのような雰囲気に
上手く載って善人ぶって批判していただけだった 

時間が経過して「STAP細胞はなかった」と客観的事実として認められているが
現実には「STAP現象」と「STAP細胞の存在」とは少し意味合いが違って
STAP現象までが小保方さんの役割で、それ以後の細胞が存在することの証明に
当たる部分は別の人(若山さん)の役割となっていて
最初から小保方さんは自分はSTAP細胞を作ることは技術的に未熟でできず
この分野の第一人者である若山さんに依頼している

このあたりは専門的すぎてよくわからないところが多いが
少しばかり感情的な思いも含めて思っていることを述べるならば
ある人によって再現されなかったといって、その現象がなかった
とまでは言えないのではないか
ある人ならある事象が現れる、ところが別のある人は現れない
そんなことは割合あることではないかとさえ思う
その説明が出来るかできないかは、現時点で出来ないかもしれないが
後の時代に説明できるようになるかもしれない

少しばかり小保方さんよりだが、単純に世の中はとても不思議に満ちていて
STAP現象みたいなことがある方が面白い
というだけで、信じたいみたいな気持ちもある 
(何度も繰り返すが、不老不死のベニクラゲはとても不思議で
 生きているうちに赤ちゃんに戻って人生をやりなおすらしい
 世の中にはこの様な不思議がいっぱいだ) 

少しBPOの報告とは話がそれてしまったが、放送局のスタッフは
世間の空気をそれとなく感じて、うける方向性の報道をするのではないか
そしてそのストーリーにそって番組を作り上げようとする

話は例のごとく逸れて、最近のトランプ大統領に関連する報道も
少しばかり(似たようなところがあると)考えることがある
それはトランプ大統領のツイッターの発言を日本語で紹介する時(テレビで)の
声の質、日本語への翻訳が、アメリカ人が感じるのと同じ感覚だろうかということ
残念ながらネイティブスピーカーではない大半の日本人は
このある方向性をもった声の質や翻訳で彼の性格を理解しようとする
(同時に顔つき、表情も映されるから、それはもしかしたら大幅に外れることは
 ないかもしれないが)
確かにあまり品の良さそうな人ではないし、選ばれつつある閣僚も「類は友を呼ぶ」
みたいなもので不安感を感じさせる容貌の持ち主が多い
しかし、あの声の質や少しばかり乱暴な日本語訳は本当の感じなのだろうか

で、少し原文のツイッターを調べてみると、困ったことに英語がよくわからない
特に政治用語が多いので理解が進まない
ただそこで何らかを感じることはできた
ツイッターは短い文章からなるので、断言や言いっ放しが多く
これを大統領の公の発言とするには、少し問題がありそうだ

結局、公平な報道というものの現実には、そうしたものが果たして現実的に可能なのか
が大いに疑問が残る
こんなことなら、立場の違う人たちがそれぞれ言いっぱなしで報道し続けたほうが理解が進むかもしれない
と思いつつも、結局人は自分の好きな意見の方の情報を求めやすくなるから
やっぱり、どんな手を講じても公平などはありえないのかもしれない
だからこそ気持ちの上でも公平にしようという心構えが必要ということだろうか
しかし、視聴率とか購読率を考えると、、、

それにしても、時の経過は、その忘却の力は凄まじい
現代人はお金を消費しているよりは、時を消費しているとさえ感じる
そしてそれらは充分に消化されること無く、まるで素通りするかのように
身体を通り抜けるだけ

NHKのBPO勧告も、もはや過ぎ去って興味のない賞味期限切れの話題で
ただこんな結果が出たという報告に過ぎなくなっている
昨日のこの新聞に掲載された記事
どのくらいの人が関心を持ったことやら 

 

 

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何度も聴く曲

2017年02月11日 08時54分25秒 | 音楽

クラシック音楽が好きだ
別に高尚だとは思っていないし、サッカーやプロレスのパフォーマンスを
楽しむのとさほど違いはないと思っている

ただし楽しむには若干のコツが必要で(何ごともそうだけど)
コツを覚えるのには、偶然のきっかけとか時間が不可欠かもしれない
たまたま自分の場合は、あるクラシック音楽を聴いて
とてつもなく圧倒された事があり、それを何度も体験したくて
聴いてるうちに楽しむコツを覚えた、みたいなものだ

ところが好きだからと言って何度も聴けない曲がある
偉大な曲「第九」や「マタイ受難曲」などはシーズンになると
演奏会プログラムにあがる
しかし、自分に限ってはこれらの曲の演奏を「聴き比べる」という
楽しみ方はどうも出来ないでいる
それは前に聴いた時に「もう一生分の聴き方をした」と感じられるような
経験をしているからだ
偏っているがフルトヴェングラーの第九、リヒターのマタイ
もうそれだけでお腹はいっぱいになっている、、みたいなものだ

ところが大曲の中でも何度でも聞きたい曲は存在する
しかも過去に感動してお腹いっぱいと感じる曲なのに
もう一回聴いてみたい、、自然とそんな風に思える曲がある

それらの曲をツラツラと拾い出してみると、今更ながら
あろことに気づいた
それはモーツァルトとブルックナーに偏っているということだ
何度も聴きたい曲、それは二人の音楽
そしてそれに共通するのは、
多分、彼らの音楽が人生観とか生き方とかはあまり関係ないところで
音楽、音自体に楽しめる要素があるということではないかと想像する

ふたりとも何かを強要するわけじゃない
感じる人が感じればいい、、まるでそんなふうな装い

ということで、聴きたい曲であるブルックナー
3月に名フィルで八番のコンサートがありチケット購入済み
今までメータ、ヴァント、朝比奈、と全部それなりに楽しめて外れなし
だったので今回も期待できそう

土曜の朝、毒にも薬にもならないお話、、、

 

 

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京都日帰り旅行(伏見稲荷、東福寺、清水寺ほか)

2017年02月09日 10時33分15秒 | 旅・旅行

スマホのアプリを見ると昨日歩いた距離は14.5キロとなっていた
勢いであれこれ歩き回ったが流石に疲れた
石畳の道はモロに身体に響いて腰と背中が痛い
若い時は屁でもなかったことが、、
と またもや凹むが、仕方ない

昨日、我慢に我慢を重ねていた(無理に我慢する必要はないのだが)京都日帰り旅行に出かけた
数日前にJR東海ツアーズで切符を購入したが
前回この切符を買ったときより随分安かった
たしか前回は1000円分のクーポンが付いて豊橋〜京都往復が11900円
それが今回は500円のクーポン、500円の飲み物クーポンがついて豊橋〜京都往復が9900円
随分安くなっていた  
冬の京都の販促のため京都から補助が出ていてこの時期安くなっているのか
理由は分からないが、ありがたいことこの上ない

今回の京都は、少し前に見た映画「本能寺ホテル」が影響して
東福寺付近を行くことにした
その近くには伏見稲荷もある

まずは奈良線に乗り換えて稲荷で下車
降りる人が多い
噂に違わず外国人が多い
特にアジア系のひと 言葉は中国語や韓国語だけでないような気がしたが よくわからない
伏見稲荷が外国人に有名になったのは千本鳥居のおかげ

ここで自撮りしている外国人を多く見かけた
しかし、こんな看板も見つけた

鳥居の価格だ
高いものは130万円 すごいな、自分は絶対奉納しない(出来ない)
写真的にはこんなのも面白い

伏見稲荷は以前にも来たことがある
千本鳥居の終点まで歩いてみようとトライしてひどい目にあった
いつまでたっても終点にならず結局は1時間半位歩くことになって
疲れた記憶があるので今回は入り口付近を少し歩いただけにした

2回目となると気になる点が少し変わっていた
少しばかり古事記にハマった時期もあり、神様の名前もうろ覚えだが
摂社の看板にはそうした御祭神の名といわれが書いてあり
面倒くさがらずに読んで、なるほど、、と思ったが、大半は
何処かに消えてしまった  (仕方ない)

伏見稲荷の次は近くの東福寺に向かった
紅葉の名所だが、それだけでなく重森三玲氏のつくった庭が有名なところだ
その庭のある本坊が映画「本能寺ホテル」に少しだけ使われている
冒頭の一瞬だけだが見た刹那「あれは東福寺だ」と記憶が蘇り
その確認をするために向かった

この庭が、映画に映っていた
でも映画の紹介のHPを見るとロケ地はあちこちで、姫路の方のお寺さんも
一緒くたになって使われているらしい
しかし、今回自分でも少し驚いたのは、この庭の反対側の方向にある市松模様の庭

これが思いの外、良きものとして感じられたことだ
前回来たときもこれは見ている
しかし、あまり感動はしなかった  
有名な人が作庭したと言っても自分には合わないな、、位で直ぐに忘れてしまう
存在だったのが、何故か昨日は すんなりと心のなかに入っていく
大概の場合は一度目の印象が強くて、二回目以降はがっかりすることが多いが
二回目のほうが良いと感じることもあるものだ
(そう言えば龍安寺の石庭も昔より最近見たほうがよく感じた)
時間の経過と言うか、人生経験が良し悪しの判断に影響するということかもしれない
(要は歳をとったということ)

東福寺は奈良の東大寺、興福寺から一字づつもらって名付けたお寺さんで
昔はすごく大きなものだったらしい
なるほど三門のスケールを見ると納得できる

このあと、京都旅行の定番 清水寺へ
あまりにも定番すぎて避けるようになっている清水さん
ただ修理が始まるとその姿が見えなくなる
との旅行の新聞広告に脅かされて、足を運んだ
でも感動したのはお寺さんではなく、その参道

あまり広くない道、大きすぎない店が並んでいる
そこをレンタルの着物を着た若い女性や年配の女性が嬉しそうに歩いている
道というのはあまり広すぎないほうが、程々の広さのほうが
そして整然としすぎていないほうがなにか楽しい気分だするものだ
と理由もなく思ったりする
そして暮らすには大変だが坂の存在
これがなかなか風情をつくる

この坂を下って八坂神社に向かう途中
ふとこんな路地が目に入った

なんと品のいい格好の良い路地だろう
どうも後で調べると「石塀小路」と名付けられているところらしい
この道はもう少し続いていて全体を見ればよかったのだが
その一部しか見なかった(しまったと後悔するのはいつものこと)

八坂神社に着いたことは、足腰背中に疲れが来ていた
硬い石畳の上を歩いたから、予想外にこたえたようだ
疲れとともに気力もダウンして、その後は休むことを考えた
それまでほとんど休み無しで歩きっぱなし

休むところは、まだ離れているが決めていた
そこは錦市場の「杵つき餅や」
ここで京都のお雑煮を食べようと、ずっと前から決めていた

念願の白味噌仕立てのお雑煮
出汁がよくきいていて里芋も美味しくてひとまず満足
しかしこの食事は中途半端な時間
晩御飯には早いし、、かと言って晩御飯を改めてとる気はないし、、

ということで14キロも歩いた京都
京都はいつも某らの発見がある
お寺さんを歩いている時にフイに聞こえる鳥の声
ハラハラと落ちる花びらや落ち葉
緊張感あふれる庭や建物の佇まい
和歌がごく自然に取り入れらている工芸物やお菓子
そして若い女性の品のいいワンポイントのおしゃれ

久しぶりの京都は、結局、今度はいつ、何処にしようか
と考えるきっかけをつくっただけかもしれない
(しかし、正直なところ疲れた)
 

  

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議会改革検討会議 一日目(2月6日)

2017年02月08日 20時34分31秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市議会に関する少し前の月曜日(2月6日)のお話

そのきっかけは先週土曜日(2月4日)に新城まちなみ情報館行われた
おくみかわ市民政策研究所の勉強会でのこの一言からだった
「岩倉市では市議会(委員会)等の様子の録画・録音が
 編集を行わないでありのままを流すことを前提に、
 市民による撮影録画が許されています」

これに早速飛びついたのがパワフルなフットワークの軽い
尊敬すべき、この地区ではちょっと名の知られた女性で
新城市議会で2月6日から定期的に行われることになった「議会改革検討会議」にも
同様の条件で録画撮影を許してもらえるように依頼したらどうか
との声が発せられた
(初日の検討会議にはビデオの準備をして彼女を始めとして数人が傍聴した) 

昨年末の新城市議会最終日では、とんでもなく恥ずかしい議場内が騒然とする出来事があり
テレビ中継さえあれば現在の市議会の実態を多く人に理解してもらえるチャンスだったのに!
と残念に思ったものだが、今後この様な申し入れが許されればテレビ中継のない会議も
今回の少し心配な「議会改革検討会議」の進め方・行方も間接的にチェックできるし
何よりも多くの人に見てもらえることになる

ところで、「少し心配な、」と わざわざ言葉を入れたのには理由があって
昨年6月に行われた議会報告会で「あまりにも政治倫理審査会が頻繁に起きすぎる
もう少しハードルを高くするように条例の変更を、、、」
正確には覚えていないがこの様なニュアンスの発言があったからだ
問題なのは問題を起こしすぎる議員であって、制度のせいでは無いと思われるのだが
何故か、制度をいじりたいような印象をもった

議会の見直しは議会条例でも時々するようになっているらしいが
それに則って今回行うことになった
とは素直にとることが出来ないところが残念なところだ
しかし、それでも結果的に以前よりも素晴らしく改革されればいいだけのこと
ただしおせっかいにも傍聴に出かけてチェックはしなくては、、、
と心配するのは悲しいことだ

ここで今回の議会改革の検討内容は、白井市議のブログによると
①議会基本条例の検証、②議会先例集の見直し検討、③議員政治倫理条例の見直し検討、
④次期改選議会への提言などとなっている
この検討会に参加するメンバーの選出について浅尾市議からは恣意的なものになっていないか
との声が上がっている
正直なところ政治力学的なことは自分はあまり関心はないし、結果として良いものが
でればそれはそれで問題はないとは思うが、現実はそう簡單とはいえず
浅尾市議の心配する方向に進んでしまわないとも考えられないことはない 

ところで、新城市の議会改革の進み具合は、議会条例をつくった時は、
それが比較的早い時期だっったために全国的にも上位を占めていたが
現在はだいぶダウンしている(これは白井市議のブログに細かく出ている)

それでは議会改革とはなにか?見直す条例とは何か?ということになるのだけれど
それが議会人の言葉遊びとか、抽象的な概念のやりとりで一般人にはわかりにくいもの
であってはならない
抽象的な事柄を如何に現実の行動という具体的なものに如何に落とし込むかが
議会改革の本質と思われるが、何のことはない国からは(?)具体的な方向性は出ていた
その中に議会の公開に関するような項目があった
今回希望するような市民による録画撮影等も進めるべき方向として挙げられていた
そのせいではないだろうが、この議会改革検討会議の録画撮影については
メンバーの大半が否定しづらい雰囲気はあった
(総意としては進めるべき方向ということ)
しかし初日となる2月6日から録画撮影が可能になったかと言えば
急な申し出であったために今後に影響する法的な整備ができていないので
それらの整理が出来てからにしたらどうか  との意見で次回以降ということになった

その中で興味深い誰もが文句を言わないだろう提案があった
それはこのティーズが行わない録画撮影等を行うのは市民ではなく
議会の責任で行うのはどうか、という話だ
これなら議員さんたちは、市民がケチを付けるために録画撮影をしている
と考えなくて済むし、市民も議会の実情を定期的に把握できるようになる
(はたしてこの手の録画が現実的にどのくらい再生され見られるかは不安があるが
 それは今後の解決すべき問題) 
だからこの線で早急に何か決めていってもらえれば、別段問題はないし
議会改革のある項目は進むことになる 

ところで、検討会当日に急に提出された録画撮影の依頼は
この検討会議の実施に係る条例でその日のうちに結論が出せることになっていた
まずはこの「検討会議」はどの条例の適応かといえば
議会事務局からは「委員会条例」に則って進められるとあり
その「委員会条例」によれば「録音、撮影は原則禁止、しかし
委員長(議長)の許可によって可能とできるとある
進むべき方向や総意に問題はないというから
委員長(議長)が、その日から了解してもらえるとありがたかったが
急な話では、法的整備ができてから後というのも仕方ないのかもしれない 

話はあちこち飛んで、議会改革の進むべき具体的方向性を
議会事務局から60項目ほど読み上げられた
その中には改めるというより本来進められているべき事柄があった
一番気になったのは市民参加の方法、その手段としての「議会報告会」のあり方、進め方だ
当たり前のように議会報告会は「市民の声」を聴く絶好の機会とされていた
まずは「議会報告会」を開く、そして市民の声を聞く
その声を持ち帰って議会で検討する、その検討結果を市民の前に発表する
それが一連の流れとして行われるべきものとされていた

これらが出来ているかが議会改革の評価となるのだが
この例を新城市に当てはめると、昨今の議会報告会の進め方や市民の声の
反映仕方などを見ると、残念ながら良い評価は与えられないのではないか
何故か直近の「議会報告会」が進むべき方向が違った方向に進められているような
(騒がしくなるような状況は極力作らないように進めようとしてるような、、)
印象を持ってしまうからだ 

第一回目の議会改革検討会議には数名の傍聴者がいた
その中には議員さんもいた
傍聴者の有り無しで会議の緊張感は随分違うものと思われるが
(なかには平気な人もいる?)
時間のある人は、自分の興味を果たすため、あるいは監視をするため
あるいは今後の議会の行く末を予想するために
傍聴するのも悪くない

第2回目の、「議会改革検討会議」は2月13日(月)13時30分より行われる
そして基本的に、毎月曜に定期的に行われることになっている 

それからもう一つ、勉強会のお知らせ
3月4日(土)そもそも研究2、財政の話をメインに  おくみかわ市民政策研究所主催
      新城まちなみセンター (13時半から)

3月5日(日)新城市政を考える会 勉強会「ザイセイの話」
      新城文化会館 104会議室(13時半から)

偶然だが、2日連続して「財政」についてがテーマになっている
異なる視点からの話をまとめて聞く機会
本を読んで勉強するより頭にきっと入りやすいと思われるので
興味のある方はぜひ!
      



 

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むき出しの感情、表現                                                                                                                                                                                                                                                     

2017年02月05日 08時53分16秒 | あれこれ考えること

世界中を引っ掻き回している大国のあの人
どんなに外からあれこれ言おうとも、アメリカ人が
法的に彼を選んだ事実は消しようがない

ところで彼の発言とか表現をさわりだけを見たり聞いたりしていると
一言で言えば「品がない」
それは「むき出しの感情をそのまま表現している」からだ
それがテクニックとして用いられ効果的かどうかは
わからないが、そういう手法を選択している時点で
彼の資質に対して不安を感じる

自分たちが現在市内で活動していることについて
もっと広がりを持たせるために、広報の仕方、それに伴う
表現についていろいろ話題にのぼることがある
それは、もう少しきつい表現をしたほうが一般的には
わかりやすいのではないか、、という提案だ
一見客観的なように見える表現はまどろっこしくて
一体何が言いたいかわからない、それよりは感情に直接響く
スッと入っていける表現をしたほうが良いのではないか
との提案がそれだ
それはある意味、割り切り、切り捨て、断言がなされるために話が
単純化され分かりやすくなる
そしてそれは多分ある一部の人達には容易に受けやすい(かも知れない)

なかなか広まっていかない現実を経験していると
方法論としては、それもありかなと思いつつも
どうしても安易な割り切りについてはブレーキをかけたがる自分がいる
それは特に筋だった理由ではなく、もっと別の突飛な理由からだ
その理由とは「美しくない」

「美しくない」という個人的な感覚、好みが自分の判断の基準を
意外なところで左右している
これは自分が日本人として育ってきたせいなのかもしれない
おそらく日本人はものごとをストレートに表現するよりは
そこはかとなく暗示するとか連想させるとか、感じさせるほうを
「美しい」とか「好ましい」と感じていて、あまりにも直接的な表現は
無粋だとか品がないとして 使いたがらない
この傾向が根っこにあってブレーキをかけさせているのかもしれない

ところが現代という時間は、時間の経過が 必要以上に速い
あれこれ想像させるより要点をまとめて表現する能力が重要視される
そこには「美しい」というより「効率」が優先される
もちろん、的確に要点をまとめた表現は「美しい」と感じることが
無いとはいえないだろう、しかし、その時の「美しい」と感じる感覚は
普段感じている「美しい」という感覚とは少し違ったニュアンスのものになりそうだ

この個人的な感覚にすぎない「美しい」という判断は
そうは言うものの現実的にはかなり役立っている
(自分は出来ないが)美しく整頓された部屋は心地よい
雑草の生えていない庭は心地よい、、などなど
それは部屋が整理整頓されているとどれだけ効果的かという面倒な話以前に、
気持ち良いかどうかという感情の判断に よっているが
それが実生活でもかなり役立っている

つまりは、「美しい」とか「美しくない」という基準による判断は
思いの外人間生活がうまくいくためには機能しているのではないか
ということ

むき出しの表現では平安時代は「無粋なもの」として
男どもは目的を達成できなかったようだ
現在でも多くの人が「むき出しの感情や表現は美しくない」
と思うようになることが望ましいと思うけれど
とは言うものの、新聞の週刊誌のセンセーショナルなタイトル(無粋の極みのような)を
つい拾い読みしてしまうのもまた紛れもない現実
人間さまはややこしい存在だ

でも国のトップにあるひとは
やっぱりそれなりに「美しい」行動をして欲しいものだ
これは遠い彼の国のことではなく、この国においても、、

(いったい何が言いたいのか、、
 よくまとまらなかったが、いつものこと ま、いいか)
 

 

 

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第一回目の住民訴訟裁判は、2月22日

2017年02月03日 09時04分25秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

今日は節分
恵方巻きがここ数年で一気に広まったのは
縁起がいい行事というだけでなく、主婦が困る
「今日のおかず何にしようか?」といった問題を
スッキリと解決してくれているからではないのかな、、
と、ご飯をいただくだけの身分では想像してしまう

と、お気楽なイントロのあとは少し真面目な話題を

2月22日(水)午後3時30分から名古屋地方裁判所 1102法廷で
第一回の「住民訴訟裁判」が行われる
これは新城市の新庁舎建設に関して市は用地外の対象物件に対しても
補償費を支払ったが、これが税金の不当支出に当たるとして
市長に対して1200万円の返還を請求したものだ

これは、その前に行われた新城市の「住民監査請求」の結果を受けて
市民団体の次の段階の行動だ。
本来ならば「住民監査請求」で充分納得の行く説明や結論が出されば
問題はないのだが、予想したとおりの結論しか出してもらえず
やむなくこの行動に出たものだ

ところで、この住民訴訟裁判は「住民監査請求」で審議された内容を
再度検討し直して欲しいというものではない
いわゆる法の解釈をどう見るかだけでなく、住民監査請求から
進化したもう少し具体的な内容となっている
今回追加された内容(証拠)は住民監査請求時に追加検討材料として
提出されたが、そのときはスケジュール的に合わないとのことで
充分に(?)検討されなかった 

その部分が12月の朝日新聞の記事に書かれている

赤線部分の抜粋
「新庁舎の用地買収や移転の調査を委託された調査会社が2012年2月 
予定地と道を挟んで隣接する長屋を補償費の「対象外」とする報告書を
いったん作成。市側の働きがけで「保証対象」とする報告書が作られ、、、、」 

市議会の一般質問でも話題となったコンサルタント会社は
一旦は「対象外」の解釈を市に告げていたということだ
ところが、その4ヶ月後にはその解釈を変えている
この期間に何があったのか?
まずは、ここに不正が行われていたのではないか、、
という疑惑が生じて、問題視すべきではないかというのが訴える側の言い分

そして、コンサルタント会社(実は市?)が「対象内」と判断した理由は
この建物の中には人が住んでいた(住民票がある)と解釈したのではないか
と想像できるが、そもそも住んでいるという概念は「居住実態」(本当に生活している)
を基準としているが、現実には住んでいなかった(との調べが市民団体ではできている)
だから解釈そのものが不当ではないか、、と訴状は訴えている

また住民監査請求では「市長の責任について」は
市長印はその実行予算の額によって、法的に市長以外の担当者によって捺印されるから
市長には責任が無い!としていたが
中日新聞の記事では
「市長と所有者には個人的なつながりがあった」
と訴状を読んで記事にしている(画像は中日新聞12月22日朝刊)
 

個人的なつながりとは、酒の席に同席した(そこでの現場を見た人がいる)
国際交流の催しでともに海外に赴いており公私にわたって親しい関係を
続けていたという事実を指すもので、
そのことから、住民投票にまでなった庁舎建設のことを考えると
この移転補償費の問題を知らなかったと考えるのは不自然であり
判断の責任が市長にないとはいえないという流れで訴状が書かれている

もしかしたら東京都では石原元都知事に対して
住民訴訟が行われるかもしれないとかの噂があり
「新城市は東京都と何かシンクロして(似て)るな!」
としばしば思ったりするが
こんなところも新城市は流行の先端を走っているみたいだ
(本来ならば、何ごともなく過ぎていけば良いのだけれど、、)

ここ数年、新城市では初めてのことが連発して起きている
それが喜ばしいことならば良いのだが、残念ながら対外的には
お知らせしたくないような内容ばかりだ
この現状に対する危機感が市内の多くの人に広がれば良いのだけれど
 

 

 



 

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