「ゴッホのひまわりを見たぞ!」
と自慢げに人に語りかけたことがあった
その時は「ひまわり」は無邪気にも何枚も描かれていることは知らなかったから
名前だけは知っていた有名なものを見たことを誰かに伝えたくて口にした
しかし、その時はただ有名な作品を見たというだけで、
そのような行為に及んだのでもなかった
その絵を眺めていた時、描かれている茎や花がニョロニョロと四方八方へ
気味悪く伸びていきそうな幻想に陥って、絵から凄まじいエネルギーを感じたのだった
それは美しいというよりは気味悪かった
そして今でもあのときは、そう感じたという記憶がしっかり残っている
ずっと時間が経って(37年後)再びこの絵を見たらどんなふうに感じるのか
とその場所に赴く計画を立て出かけた(4年前)
そこで見たのが
「ゴッホのひまわり」
この様に写真撮影ができる事自体が信じらないが、この場所はミュンヘンの
ノイエ・ピナコテークだ
しかし、写真撮影が許されていることよりもっとびっくりしたのが
「こんな絵だったのか!」 ということ
昔感じた絵とはまるっきり違う
何も今の自分には訴えるものはない
あるのは静物画としての一つの絵
そしてその落差にショックを受けた
自分は熱心な絵画鑑賞者ではないので、この絵をどのように見て
どのように解釈するのか、そうした専門的な鑑識眼は持っていない
ただ単純に昔見たものとの受け取り方の比較をしたかっただけだった
正直がっかりした
がっかりしたのは絵への失望と言うよりは、感じられなくなった自分への失望
(かもししれない)
しかしそれは現実だから仕方ない
歳を重ねて失うものもあれば得たものだってあるはずだ
と自分で自分を慰める
でも救いはあるぞ
先日出かけた京都の東福寺の重森三玲の市松模様の庭
これは間違いなく以前見たときよりは良きものとして感じたし
数年前再会した龍安寺の石庭も昔より感動している
歳を重ねると失うものも多いが、得たものもあるということか
失うものの筆頭は記憶力だが、忘れてしまう能力というのは
もしかしたら案外大事な能力なのかもしれない!と
今は慰めながら 考えるようにしている