記憶に残っていることは、何故それが、、とツッコミを入れたくなるような事が多い
我が家では、自分らが子供の頃、家族6人で岐阜に旅行に行った時のことが共通の思い出となっている
父は電電公社の勤めていて各地にある保養所(?)の一つの岐阜のそれに泊まることになった
着くやいなや案内された部屋は窓から金華山が見えて、いい部屋だ、、とみんなが喜んだ
ところが、しばらくすると、すみません、間違えていました、、、との言葉で別の部屋に
替わった部屋はどんな部屋だったかは覚えていないが、間違えて変えさせられたことだけは覚えている
それで腹が立ったか、、といえば、何十年も後で、あの時こうだったね、、と家族で話題にのっているのだから
むしろ良かったのかもしれない、、とさえ思う
このように覚えているのはトラブルとか予期しない事の方が多い
しかし、それら以外にもその時、その場所で感じた鮮明な思いというのも、いつまでも残っている
たまたまウィーンのシェーブルん宮殿の写真を先程見かけたものだから
42年前にあのだだっ広い庭の、少し小高いところまで歩いて行った時にフト頭に浮かんだことを思い出した
「お金があるということは、権力を持つということは、このようなバカでかいことまでできるのだとしたら
人は権力を持ちたがるかもしれない」
何の脈絡もなく突然浮かんだのがこのことだった
実は3年前、再び同じように感じるのだろうか、、と同じ場所に立つことになったが
その場所はただの広い庭園にしか感じなかった
昔からドイツが好きだった
クラシック音楽が好きなのも理由の一つだが、ヘッセの影響や、
ワールドカップスペイン大会の準決勝での延長戦で2点差をつけられながら
粘りに粘ったフランスとの戦い方が、なんとも心動かされ、ドイツ好きに拍車がかかった
その好きなドイツへ旅したときのこと
何故かベルリンはあまり良く覚えていない
だがそのベルリンで覚えている数少ないことの一つが、変なことだ
確か高い場所からベルリン市内を見る状況だった
当時はまだ壁があり、東西ベルリンに分かれていた
その高い場所から見たベルリン市内を見て、東西に分かれているのは、、良いことだ、、
と突然頭に浮かんだ
ドイツ人の何事も徹底的に、コツコツと粘り強く行う生き方を少しばかり目にしていたせいか
この人達は本当に世界征服、、みたいなことを考えてしまうかもしれない、、
それをさせないために、このように分かれているのは天の摂理に違いない、、、とさえ思った
そんな根拠のない記憶があったものだから、あのベルリンの壁が崩壊したときは信じられなかった
未来永劫、そんなことはないだろうと思いこんでいた
だが、テレビのニュースで多くの市民が押し寄せて壁を壊し、ブランデンブルク門のあたりで興奮状態で
叫び声をあげているのを見ると、何故か涙が出てきた
良かった、、、と
人の心なんて矛盾だらけだ
一緒にならないほうが良いと思いつつも、一緒になればこのように涙する
フト思ったことと、本当に望んでいることが違うなんてことはザラにある(だろう)
ところで、今になってじわじわとあの本良かったのかもしれない、、と感じるのが
プルーストの「失われた時を求めて」だ
上下二冊に縮小されたものだが、読んでいるときは、どうでもいいことをダラダラと
しかも一つの到達点に向かってではなく、頭に浮かんだことを随時挿入されて
文章自体が夢の中みたいな印象だったが、それが時間がたつに連れて
人が生きるということは、こうした些細な記憶のつながりかもしれない、、とも思えるようになった
荘子には胡蝶の夢というのがあるが、この気持もよく分かる、、といったところ
ということで、土曜の朝は一枚のシェーブルん宮殿の写真から連想したこと
それに引っ張られて思い出したこと
例のごとく毒にもクスリにもならないこと、、