パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

お金が減ることへの嫌悪感

2018年08月17日 07時42分28秒 | あれこれ考えること

予報では乾いた涼しい風が吹くとあった
昨日(今朝)窓を開けて寝ていたが、寒くなって目が覚めた
なにか被るものを探したが連日の猛暑で、ここ(2階)にはタオルケットすらない
そこで、窓を閉めた  ようやく快適な温度になって二度寝に挑戦

起きる時間になっても空気は涼しいし、風も結構強い
光の色もあの焼き尽くすような色とは違う
カーテン越しに入る日差しも南に傾きつつある
やっと暦通りの秋の気配を感じられるようだ
(暑さが復活すると堪えるどころかうんざりしていましそう)

エアコンのないこの二階の部屋でもゴソゴソできそうで、
今のうちにとりとめのないことをダラダラと

江戸の川柳に、
●金持ちを見くびっていく初がつお
というのがある(江戸川柳を楽しむ 神田忙人 から)

金持ちは高価な鰹を気分や見栄で買うものではない
だから金持ちになれたのである
魚屋もどうせ買いはしないと決めてかかっている、、という意味だそうだ

そこであることを思い出した
それはきっとお金持ちはケチだという勝手な想像
この川柳のように始末屋だからお金持ちになった人ではなく、既にお金持ちだった人や
必死にお金儲けに励んだ人は、、散財に対して、いや自前のお金が減っていくことに関して
嫌悪感を感じるのではないか、、

資産家は今更敢えてなにか豪華なものを購入しなくても既に所有している
家具も食器も家電も車も家も、、、およそ、庶民が憧れるようなものは、、購入しなくても既にある
だからお金持ちはお金を使う場面があまりない(庶民はお金持ちのお金の使い方がわからない)

一時期流行った英語の百科事典の購入者は、資産家ではなく、成金的な人々だったという
厚い知的な印象を与えるその本は、その人たちの見栄の気持ちに満足感を与えた
しかし、お金が減ることを何よりも嫌うお金持ちは、使用する機会がなく、無駄になりそうなだけの
その百科事典を買うことはなかった

この気持はよく分かる
そして今の時代、お金持ちを設けている企業と置き換えると、、
これもまた同じことが言えそうだ
儲けている企業はその儲けた分を人件費に使い再配分するのが良い、、とされるが
実態は何かのときのための内部留保が増大しているらしい
心理学的にも増えることより減ることの方が人間は気にかかるらしい
とにかく、今あるものを減らしたくない、、、それが人情というもの、、

トリクルダウンという言葉がもっともらしく言われるが、これが実現された国は
未だかつて殿にもなかったとピケティは調査の結果で明らかにした

正直なところお金持ちでもないし、特に物欲や野心があるわけではなく
適度に(?)諦めることを強いられている自分はお金持ちの人のメンタリティはわからない
でも、以前パチンコをした時、全然入らずに持ち玉がどんどん減っていく(お金が減っていく)時に感じた
不安感・焦燥感は、、もう経験したくないと思ったものだ

ということで、お金持ちの財布を期待するより、物が足りず必要なものを買わざるを得ない庶民の財布を
豊かにするほうが、経済政策としては優れている、、という枝野さんの言い分は、説得力があるように思える
(枝野幸男魂、3時間大演説の中にあった経済政策)

相変わらずの独断と偏見かな
そろそろ部屋は暑くなりつある、、
さ、逃げ出そう、、





 

 

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判断基準は「それは子どもたちにとって良いことか?」

2018年08月15日 08時34分59秒 | あれこれ考えること

山口県周防大島町で、12日から行方不明になっていた2歳の男の子を無事発見
どんな経緯があったかわからないが、本当に良かった
2.3歳の子供の行動は本当に予測不可能で、つくづく目を離すといけない
先日は甥の3歳の男の子が家族と買い物に行った際に迷子になってしまった
これは笑い話で済んだが、まだまだ目を離すと危ない

数ヶ月前はタイのサッカークラブの子どもたちが洞窟で飲まず食わずで何日間も過ごした後
国際的にダイバーたちの協力もあって無事生還したとのニュースもあったが
子どもたちが助かって、本当に良かった

子どもたちが苦しい目とか悲しい目に合うのを見るのは辛い
ましてこれからいろんな経験をするであろうし、そこからいろんなことを学んでいき
カミュ風に言えば「人生は生きる価値があるかどうか」を自らの答え出さなければならないのに
まだ何も経験してない状態で、その未来が奪われるとしたら、、、
そう考えると、理不尽でやりきれない思いを持つ(今回は幸運にもそんなことはなかったが)

世の中には理不尽なことでもなにか意味がある、、とする考え方に、
少なくとも子どもに関してはそうではないと、圧倒的な迫力で否定の意見を述べたのが
カラマーゾフの兄弟のイワン、有名な大審問官の少し前の章だ
小さな女の子に何の罪があって、そんな悲惨な思い(確か親《領主?》の虐待だった、、ような記憶)をさせなければならないか
後付の大人の理屈なんて、、子どもたちの苦しさに比べれば、、何の意味があるか、、、

この部分から大審問官の部分までイワンの言い分はとても引掛って、時々この部分だけ読み直すことがある

子どもは、まだ何も知らない、何も体験していない、、それだけでとても大事な存在だ
いつか知恵がついて、生きるのにたくましくなるとしても、、その前のホンの僅かな時間
その澄んだ瞳に見つめられると、つい自分たちがわけもなく恥ずかしくなってしまうような気さえする

昔、判断に困ったときはどうするか、、と考えた事があった
その時にフト浮かんだのは、「それが子どもたちにとって良いことか?」を基準に考えてみようとすることで
これは内心気に入っている
ところで、最近のこの国のやることなすこと、「子どもたちにとって良いことか?」と考えると
ほんと、どうなんだろう、、、



 

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目が覚めたら頭の中で音楽がなっていた

2018年08月13日 06時26分51秒 | 徒然なるままに

目が覚めたら頭の中で音楽がなっていた
残念ながらモーツァルトのような天才的なメロディが浮かんでいるわけではなかった
凡人がよくあるような、知ってる曲だが曲名がなかなか出てこない、、
このパターンだった

「花びらが散ったあとの、、、」
その声やハーモニーはこの部分は覚えていたが、曲の先へ行こうとすると
また最初に戻ってこの先になかなか行けない
でも、多分「ささやかなこの人生」というタイトルだったと思い出した
歌っているのは誰だったかな、、
吉田拓郎?でもらしくないし
フォーク・クルセダーズ?
もっと新しい人たちのようだし、、

こんなときは最強の武器、インターネットの検索がある
「ささやかなこの人生」と文字を入れて調べると、、歌っているのは「風」だった
そうそうこの曲だった

風/ささやかなこの人生 (1976年)

でもなんでこの曲が頭に浮かんでいたのか、、

今日はお盆、ご先祖様が馬に乗って帰ってくる日
それで、少しは真面目に「人生」なんてことが頭の何処かに引っかかっていたのだろうか、、

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イニエスタの凄さ

2018年08月12日 17時04分50秒 | サッカー

イニエスタがジュビロ磐田戦でJリーグ初ゴールをあげた
思わず上手い!と声が出た
ポドルスキーからの縦パスを相手を背後に置きながら
あっという間の無駄の無いトラップとターンで置き去りに、
そしてキーパーも小さなフェイントで交わし落ち着いてシュート

なんと言ってもあのトラップというかターンの見事さ
一回で出来ることは手間かけずに目的を果たす
いやはや凄い

DAZNで見た後半、圧倒的な存在感というより呆れるほど淡々とプレイしている
ほとんどミスをしない
時に仕掛けて味方のシュートに繋げて
でも一番気がついたのは彼の縦パス
味方への適切な足へのパスへの正確さだけじゃなく
必要以上に速くないスピードのパス
あれなら味方もプレイしやすい
日本人なら縦パスは勝負のパスと力んで、ブレたり速すぎたりでため息が出ることが多い

神戸の選手はいいお手本が見られていい経験になるだろうな
スポーツ紙もゴールとかアシストとか、そういうことだけじゃなくイニエスタの
無駄のない正確な技術と選択を報じて欲しい
イニエスタの凄さはそこにある

それにしても、上手いな
日本で見られるとは、、、まだ本当のことかと思ってしまう

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今だけ、自分だけ、お金だけ

2018年08月12日 12時42分18秒 | 徒然なるままに
「今の時代、残念なことに、、、」
昨日のこと、あるイベントの手伝いをしてる時、その人は気になる言葉を続けた
「大事なのは、今だけ、自分だけ、お金だけ、、そんな風潮になっている」

「将来がどうなるか想像力を働かせることはなく、他人がどうなろうと御構い無し、
そして何よりもお金が一番と考えるような、そんな風に、、、」

そうかもしれないとつい頷いてしまった
確かに人って大なり小なりこうした傾向はあるかもしれない

でも、なんか美しくないなぁ
そして、そんな思いでずっと暮らすのは、、、嫌だな
少なくとも今はそう思う





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「自然法主義」と「実定法主義」(そうなのか、、)

2018年08月11日 07時20分58秒 | あれこれ考えること

窓を開け、扇風機をつけて、誰も見ていないのでランニング姿で
パソコンに向かっていても、じんわりと汗が滲んでくる
ということで、チャチャッと気になることの投稿を済まそうと思うが、、

なんだ、そういうことなのか、、と思うことがある
以前から「法に違反していません、、」の一言で、気持ちがすっきりしいまま
一応の解決をされるようなことが、市でも国でも頻発していた
「法には違反していないかもしれないが、、おかしいじゃないか」
自然に湧き上がるこの感情、法に違反していなくても倫理に照らし合わせると
なにかおかしい、、でも、、それ以上は物を言えない、、この状態のイライラ
希望的には倫理が法よりも優先されるような世界であれば、
そしてその捉え方が世間一般に共有されていれば良いのだが、、と思うしかないないと思っていた

ところが、つい最近読んだ「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」の中に
これに関するなかなか興味深い部分を見つけた
法の分野では「実定法主義」と「自然法主義」というのがあるらしい
実定法主義というのは明文化されたルールだけを判断の根拠として、判断の正当性までは踏み込まないというもの
一見、問題はなさそうと思えるが、社会変化が激しいこの世の中でルールが新たに明文化されるまでには
タイムラグが存在し、その間に「法に違反していないかもしれないが、なにか変」という状態が起きうる
一方自然法主義というのは、自然や人間の本姓に合致するかどうか、その決定が「真善美」に則るものかどうかを
重んじる考え方(多分倫理もこの中に含まれる)
そのどちらが優れているかとなるが、19世紀までは人為的に制定された実定法は、自然と人間の本姓から
アプリオリ(経験に先立って)に規定される自然法の下に位置づけられるというのが西欧における一般的な通念でしたとある
(日本では一般通念として認識されていたか?)

少し乱暴な言い方をすれば、入試で考えると自然法主義は一次試験、実定法主義は二次試験のようなもので
一次が通らなければ二次まで進めないということになるのだが、どうも最近のこの国に蔓延する雰囲気は
一次試験が通っていないのに二次試験がどうのこうの、、と言ってる雰囲気がある

ところで、この本には実定法主義として明文化される前の状態で、やり手の人物が起こしそうな出来事を取り上げている
1.シロ=合法的、クロ=違法の間に横たわるグレーゾーンで荒稼ぎするビジネスモデルを考案する
2.そのうち最初は限りなくシロに近い領域だったのが、利益を追求するうちに限りなくクロに近い領域にドリフトしていく
3.やがて、モラル上の問題をマスコミ・社会から指摘されると「叱られたので止めます」と謝罪して事業の修正を・厚生を図る

どこかでよく見かける出来事のように思えてしまう
多少ニュアンスが違うかもしれないがピケティも経済的に成功した人については
努力した人、運が良かった人にもう一つ、シロクロの境を歩いた人、、みたいなことを述べている

この真善美に由来する「自然法主義」が上位とか、これを用いることが必要とするのは
最終的にはその方が効率が良い、大局的に見て一本筋が通っているのは大きな意味で効率が良いからだとされる
これはゲームの理論での結論と似ているのかもしれない
つまりみんなが利益があるように考えるほうが、世の中にとって得になるということ
サピエンス全史でも、こうした考え方をするように脳が大きくなって進化して、今に至ってるというように、、

しかし、問題は現在の日本(大きく出たな)とか市で、この一種利他的な、自然発生的に生まれる素朴な倫理とか正義とか、、
そういう感情が、人為的に作られその分解釈に苦労するような法に違反していないからと開き直っている人たちに負けてしまっているという実態
だからこそ、イライラが募るばかりとなる

エリートがなぜ「美意識」を鍛えるか、、この問題に関してこの本は「それは犯罪を侵さないためだ」と端的に述べている
ここでのエリートとはオルテガの言うような自分の内部の声、基準に従って生きる人ではなく、一般社会通念上エリートとみなされる
人々のことで、彼らは重要な判断を下したり、影響を与えることになる人物のこと

つまりは、判断を間違えないためには「美意識」あるいは「真善美」の意識が必要ということ
でも、これは大げさに、また分析的に改めて言わなくても、一般人はなんとなく、、感じていること
一般人のなんとなく、、という感覚は、案外正しいぞ、、ということ
(もっとも、全然信用できない場合があるのも否定出来ないけど、、)

ということで、ここまで要した時間は約一時間ちかく、、結局いつものごとくよくまとまらなかったが
こうして表に出して多少スッキリした気分になれた(?)

それにしても、今年の夏は暑い
もう勘弁してくれ、、、頼むから、、

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ビジネス書というより哲学・心理学・文学の啓蒙書(世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?)

2018年08月10日 01時21分15秒 | 

大げさに言えば人の一生は選択と判断の連続だ
できることならそれを間違えたくない
人の生活を左右する企業経営者とか政治家は尚更だ
この選択と判断について、少しばかり変わった視点(美意識)から捉え直し
そうすることがトレンドであり、そうすべきだとするのがこの本

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 山口周

一般的に企業人や政治家は判断の拠り所として、理知的な分析・論理を用いる
それは当たり前の事となっており、その考え方の進め方、まとめ方がノウハウとして
標準化され、かつては独占状態だった「賢そうな分析・論理」はどれも差のない状態になりつつある
そんな時(今がそうだが)どうするか、、という解決法を示したのがこの本だ

ところで上記のような賢そうな分析・論理には差がないと感じたことがあった
自分の住む新城市では昨年市長選があった
三人が立候補し、その三人が公開討論会をすることになり、何日かに分けて行われ、その日その日のテーマに基づいて持論を戦わせた
一人ひとりを単独で聞いた場合、その弁舌の旨さ等に聞き入ることや、分析・論理がしっかりしていると感じることがあるが
さて同じ壇上で同一のテーマで話を聞くことになると、これが三人に大差がないように感じられた
それは現状分析から必然的に導かれるものを述べたからで、多少のニュアンスは違うものの、よく似ていた
(だからこそ、会場で3人の政策をみんなまとめてやればいい、、と発言したある応援団の人物がいた)

理知的な手段による限界がそこにあるように感じられた(これを踏まえてどうするか)

ここで話は飛んで、オウム真理教の不思議に移る
よく言われるようにオウム真理教の幹部となった人たちは、偏差値の高い良い大学に入学している
世間的には頭の良いとされる人々だ
ところが、彼らの殆どが「文学作品」を読んでいないとのことだ
この本の解説によればオウム真理教の階級のステップアップは努力すれば報われる
入試試験のようなもので、このシステムは彼らにとてもフィットした
ところがいろんな人間が混在する現実の世界は、努力が報われないことがあるし、理不尽なことも多い
(だから彼らは挫折した?)
この不可解な世界をどう生きるべきか、、と精魂込めて記したものの一つが文学作品であるが
オウム信者は、その方法・媒体と接触せず(体験せず)入試の成功体験の残るシステムの中に自分の居所を見つけた
この文学体験のない人々が作り上げた空間は、一種の美がなかったのではないかとするのが著者の意見

確かにオウム真理教には美意識がなかったと思われるものにあのサティアンの様子がある
京都のお寺さんに行くと、そこにはどこかしこにこだわりのある建築物・仏像・美術品が目に入る
これは仏教に限らずキリスト教の世界でも、それこそとんでもなく表現意欲に満ちた芸術作品がこれでもかと並ぶが
一方テレビの報道画面から見られたオウム真理教の内部の様子は、乱雑で無秩序で美しいと言えるものではなかった
また選挙運動で使われた歌も、、美しいというより幼稚で、、およそ美的センスを感じさせないものだった

独断になるが美を感じない人たちが行うこと、判断することがこのようなもの(オウム真理教のようなもの)になる可能性があるということだが
ここでまた話は飛んで、アメリカで行われた実験に移る

ミシガン州立大学の研究チームは、ノーベル賞受賞者、ロイヤル・アカデミーの科学者、ナショナルソサエティの科学者、
一般科学者、一般人の5つのグループの対して「絵画や楽器演奏等の芸術的趣味の有無」について調査を行ったところ
ノーベル賞受賞者のグループは他のグループと比較した場合、際立って「芸術的趣味を持っている確立が高い」ことが明らかになった
としている
アインシュタインはモーツアルトが大好きで、どこに行くにもヴァイオリンを持参したというのは知る人ぞ知る有名な話
サイエンスと関係ないようなアートが、何らかの影響を与えているとも想像できる話だ
アートという非言語的な世界に、何か真実とか美を感じる、、その感じるという体験は
サイエンスの現場でフト感じたりする「秩序だった美」と同様なものなのかもしれない(と思う)

美を感じる人たちがなにか偉大なことをなして、(芸術分野ではなくても)
美を感じない人たちがおぞましいことをする、、というのではない
だが、少なくともどういうわけかその可能性はありそうなのは、なんとなく予想がつく

ところで、この非言語的な厄介な美というもの(の認識)は、どうやら直感というものが必要なようだ
直感は偏見か、それともまごうことない真実を見る目か悩ましいところだが
将棋の棋士さんたちの調査結果によれば、一流棋士とアマチュアの上段者とは読みの力の差はさほど差はないが
第一感で思いつく手の正しさに大きな差があるという
一流の棋士さんは第一感で感じた手を、これで間違いないかを検証する、、
アマチュアは残念ながら、子供のように、あるいはコンピュータのように様々な手を検討しようとする
時間制限のある勝負の世界では、ここで差がついてしまう

将棋の棋士に限らず、何故か直感的に正しいことをしてる、、と感じることは音楽の分野でもある
カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者、フルトヴェングラーの演奏だ
緻密な分析と論理を踏まえていながらも、まずは大づかみに直感的に捉える
そしてそこから出てくる音は、、音楽は、、、生き物のようで、美しい

話は例の如く逸れたが、物事の判断・選択には「美意識」あるいは「善に対する意識」が
今は必要になってきており、実際にそれを実行している企業が現在世界を席巻していると紹介して、
この本(世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるか)はビジネス書としての役割を果たしているが
正直なところ、ビジネス書というよりは、個人的には哲学・心理学・文学の啓蒙書のような印象をもった
ここに登場する人物も最近の自分の関心人物(ハンナ・アーレントとかマックス・ウェーバーとか)が多く
付箋もしっかりつけたが、もう一度じっくり読み返さねば

ところで、なにか美しいものはそれ以外に(ビジネス的)効用があるだけでなく
そのもの自体で楽しめる、、のも事実
ただ、それを手にするには、、ちょっと筋肉を鍛えるような何かを鍛えなきゃ、、というところかな
(小林秀雄の「美を求める心」、、だったかもそんなことが書かれていたような記憶が、、、違うかもしれないけど)

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ついていけなくなった映画

2018年08月08日 05時38分52秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

悪いところが腰なのか股関節なのかよくわからないまま、相変わらずの状態
今後このままだとすると、いつまでも得意のダラダラ生活じゃまずい
少なくともこの状態に慣れるしかない、、と気張って(?)昨日映画に出かけた
その結果、慣れるようになったかといえば、、、、

映画は「ミッション・インポッシブル」
例のごとく場内が暗くなってからの15分間は予告編だ
いつも思うのは、人はこんなにも破壊願望を持っているのか、、ということ
予告編の大半は何かをぶっ壊している
車を使って、あるいは火薬を使って、あるいは自然の力を使って
大きなスクリーンに迫力あるシーンというのは、そうした方法しかないのか、、
確かに大音響と臨場感たっぷりの映像はそれなりに気をひく
でも、正直なところ、、もうついていけない感じだ

ミッション・インポッシブルもやはり何かを壊している
ストーリーもあれこれ二転三転して、登場人物や組織も多いのでよくわからないまま過ぎていく
でもなあ、、、
この手の映画についていけなくなった自分がいて、いちいち批判的に見ていた
殴り合いをして殴られたらダメージがあるので、すぐさま反撃なんかできないのじゃないのか
ビルから飛び降りたり車から放り出されたりしたら、擦り傷や骨折も考えられるが直ぐに立ち上がって走り出す
走っている時もあんなに全力で走ったら疲れるはずなのに疲れ知らずで彼はアンドロイドか
そんなふうに見るのは楽しもうとする気がないのだろう

なんだかな~
年令を重ねるということはこういうことかとも思ったが、
場内は結構シニア世代が多かった(火曜日のファーストショーでは当たり前か)

映画なんてエンタメなんだから、ただ愉しめばいいのだろうけど、それでもこの手の映画はもういいや、、という感じ

ただミッション・インポッシブルの舞台のパリ市街の風景は、それだけは楽しめたかもしれない
何十年も前に着陸前に窓から眺めたパリの町、それはまるで石で作られた町のようだ、、と感じたのだが
改めて、そんなことを思ったことを、思い出した
ちょっと前「セーヌ川の書店主」を読んだが、この映画もパリが主なる舞台だったとは、、少しばかり共時性の
働きがあったかも、、
でも、この手の映画は、もうそんなに見ないだろうな、、

それにしても、座ってて体の体勢を何度も変えなきゃならなかったのは、ちょいと辛かったな
このせいで集中できなかったのかも、、

 

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読書中に思い浮かべる次に読む本

2018年08月06日 05時34分39秒 | 徒然なるままに

猛烈な読書量ではないが本は好きだ
毎日何かしらの活字に触れていると安心する
だが時々ブレーキが掛かる
本を開いてもどこか気分が乗らないような
そして目は文字を追っているのだが脳まで伝わっていないような、、

こういうときは軽めのミステリーで勢いをつけることにしている
本格ミステリーだと熟読を要するので、雑学が身につきそうなものを選ぶ
(どうも妹も同じことをするらしい、、遺伝か、、母方の祖母は松本清張が好きだった)

昨日、近くの精文館書店によって購入したのが「楽園のカンヴァス」原田マハと「羊と鋼の森」宮下奈都
前者は最近目にする名前だし、後者は本屋大賞に選ばれたし音楽関係なので気になっていた
最初に手にとったのは「楽園のカンヴァス」の方
これは思いの外面白かった
自分が知らない画家、アンリ・ルソーの作品「夢」「肖像画」やピカソの「アヴィニョンの娘たち」などの
絵画としての意味とか歴史上の役割とか、モンマルトルに住み込んだ野心的な連中の集まりである「夜会」の話やら
それこそ雑学が身につく感じで、物語のキーとなるアンリ・ルソー(というよりその絵画への解説)に興味が湧いた

「夢」と名付けられた絵は、何かのレコードジャケットで見たことがある気がしていた
ベルリオーズの幻想交響曲か、ストラヴィンスキーのなにかか、、
でも正直、それほど気になる絵でもなかった
それはこの本を読んだあとルソーとググッて、他の作品を見ても、、残念ながら波長は合わない
(自分が好きなのはホアン・ミロ  訳がわからないがホッとするとか優しい気持ちになれるとか、子供になれるとかで)
だが、この本のルソーの絵画に対する解説は、熱意は面白かった
それにストーリーも次々に興味を抱かせる展開で「原田マハ」ってどんな人物なのか、次に別の何かを読んでみようと興味をもった
ところで、絵画に対する描写が多いこの作品を読んでいて、不意に(またもや)思い出したのが辻邦生の「夏の砦」だ

「夏の砦」は、グスターフ公のタペストリー、支倉冬子は初めてそれを見たときは非常な感動を覚えたのだが
もう一度見たときは何故か何も感じなかった
それは何故だったのか、、、一体美とは何なのか、、、この問を延々と突き詰めていく物語
彼女の幼少期から失踪までの期間の心の変化・進化を精緻な文体で豊穣な物語風に展開していく
自分が一番最初に触れた辻邦生の作品で、読み返してはいないが今でも彼の一番好きな作品かもしれない
このあと背教者ユリアヌス・春の戴冠・樹の声 海の声・真昼の海への旅、その他エッセイや対談集を
読むきっかけになった作品だ

ある本を読んでいて、次は何を読もうか、、と思いつくことは珍しくない
今年は「失われた時をも求めて」を読んでる時に「イギリス人の患者」を思い浮かべたし
「安政の大獄」を読んでいるときは「奸婦にあらず」を次に読もうと決めてたし
先日の「セーヌ川の書店主」を読んでるときは「ドナウの旅人」「シッダールタ」を連想した
そして今回は「夏の砦」

そういえばレコード・CDを聞いてる時も、つい次は何を聴こうかな、、と考えることがある
これってのは、カラオケで次は何を歌おうか、、と決めるのと同じことかな

ところで、辻邦生の「夏の砦」
読み終えるには気力と馬力が要りそう
今のところは、残っている「羊と鋼の森」に挑戦というところかな



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女と男の感性(あるいは表現)

2018年08月05日 06時12分26秒 | 

エアコンの効いた部屋でダラーとしながら読み飛ばしたのがこの本
セーヌ川の書店主 ニーナ・ゲオルゲ

先日新聞の書籍の広告欄に載っていて、気になって直ぐにアマゾンで購入したものだ
芥川賞と直木賞、どちらに該当するかといえば明らかに直木賞
傷を負った人々がセーヌ川をたどり、そこで過去を振り返り、様々な経験をする上での
再生の物語だが、深刻というよりはストーリーを楽しむ感じで
悪くはなかったが、、、

この本を読んでいたら不意に宮本輝の「ドナウの旅人」を思い出した
よく覚えていないのは相変わらずで情けないが、あの小説も教養小説的な、あるいは再生の
物語だったような、、、
(宮本輝の本は読後が肯定的なので安心して読める、、読んだ本の中では)

主人公の書店主が薦めるなかにヘッセの詩「階段」があったが「階段」よりは
自分はヘッセの詩なら「シャボン玉」が好きだな
そして再生の物語なら圧倒的にヘッセの「シッダールタ」のほうが良い
最後の川の辺りの部分は涙が滲んでくる
「シッダールタ」は優れた出自で頭も良い、、何かを求めて修行中の男がある時女に心を奪われ、
放蕩息子のようにハグレる、、そしてしなくても良いような経験をする
こんなはずではなかった、、と他人から見れば思えるが、彼の経験は仏陀が求めようとしたものと実は同じで
静かに自分を振り返った時の心情はある意味悟りに似たもので、ヘッセの東洋的な精神の到達点のような
ロマンティックな物語
「セーヌ川の書店主」も基本的にはこの物語と似ているが、今回一番気になったのは作者が女だなと実感したこと

先日やはり女性(諸田玲子)が書いた幕末の村山たかを主人公とした小説「奸婦にあらず」を読んだ時も
書き進めている主体が、女だな、、と感じた
その何が違うのかはよくわからないが、とにかく直感的に男(男の感じ方・考え方)とは違うと
そのことだけが強く印象に残った

女と男の違い
ざっくり言えば、女のほうが(文体が)感情的なのかもしれない
冷静・客観を装ってもつい出てくる肉体の経験を通しての感情
それが男のそれよりもよりストレート
そういえば、何年か前「冷静と情熱のあいだ」という小説があった
(上)を辻仁成、(下)を江國香織が書き起こしたもので
同じ主人公の物語をそれぞれ男の視点、女の視点で描いたもので、
この時もやはり自分は男の方の文体・物語に抵抗感はなかった
女性の書いたものは、説明しなくても女だけがわかるような、どこかそんなような部分が存在するようなしている

まだ読んでないが、男が女を装って書いた「土佐日記」
女の書いた「和泉式部日記」などでも、男と女の感じ方やら考え方の違いがわかるかもしれない

一体何が違うのか、、そう感じるだけでそれを深く追求しないのが、素人の気楽さだが
とにかく、何かが違うな、、とつくづく感じる

この女と男の感性・表現の違いは音楽でも見られる(と思う)
それを強く感じるのはマルタ・アルゲリッチの演奏を聴く時
エネルギッシュにバリバリと弾く彼女は曲の把握が直感的で演奏はその直感を信じ切って演奏しているみたい
もちろん専門家としても分析的なことはされているだろうが、出てくる音として感じるのはこのこと
例えばバッハのパルティータをアルゲリッチとアンドラーシュ・シフのと比べるとそれは明らかになる(と思う)
いきなり人の心の中にまで入ってきそうな直感的なアルゲリッチ、そこまでは感情移入はせずに楽譜を眺め
そして自分の性格を見極めた上で優しく歌うシフ

ということで、日曜の朝は相変わらず毒にも薬にもならない話
今日は昨日より暑くなるとか、、、
もう勘弁してくれ、、、といいたい気分、、、


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