パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

どんな大人になりたいか?

2018年10月16日 09時27分17秒 | 徒然なるままに

どんな大人になりたいか?
の問に以前は無条件に「子どもに通用する人間になりたい」
と答えを準備していた
身内の子どもたちには当たり前に通じるこの感覚(お互いが信用しきっている感覚)が
見ず知らずの子どもにも通用するのが理想だった

(決めつけはいけないが)子どもたちは大人にはない能力を持っているのではないか
知恵も記憶力もない未熟な状態で自分の身を守るためには、別のなにかの力がないと
それは不可能になる
人は初めて見る動物(獣)にその瞳を見て親しくできるか避けるべきかを
なんとなく感じとるようで、その力のおかげで人類は今まで存続してきた(との説がある)
この第六感に近い感覚が、人間の子供時代には存在するのではないか
と根拠もなく信じ込んでいた

子供の(いつかはなくなってしまう)不思議な人を見極める能力に合格したい
それは自分のサッカーコーチ時代も、現在の地元の小学生向けの「あいさつ推進運動」でも
一番の優先順位だ

9月からスタートした近所の小学生との月曜日・木曜日のあいさつ運動と小学校校門までの付添は
だいぶ慣れてきて、子どもたちは段々と屈託なく話しかけてくるようになってきた
彼らは大人の気持ちを忖度するなんてことはない、そのとき彼らの頭に浮かんだことを
マイペースで話すだけ
この間は「これ持ってて!」とちょっとした荷物を通学途中持たされたし
「名字じゃなくて●●って呼んで!」
「月曜日、(いつものように)来る?」
これらは、自分が安心して話しかけることができるという人物として
認識されているようで、つまり合格しているようで、、少しばかり嬉しかった

しかし、少し心配なのは自分自身がいつまで経っても子どものままの可能性も否定出来ないこと
もっとも、それが性格なんだから仕方ないか、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8.02メートルの謎(仮説)と夜中の電話(備忘録用)

2018年10月14日 08時31分11秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

およそ日曜日の朝にふさわしくない面倒くさい内容
今年9月26日の「行政裁判のこと」(備忘録)に関連する事柄

新城市ではある時突然に新しい道路(仮称市道3号線)の設置が
市長から議会に提出された(結局廃案になったが)
その道路の必然性を行政ではいろんな説明をしているが
それがないとM氏の新しく建てたい家が接道義務に当てはまらなくなって
建てられなくなってしまう事実があるので、それに配慮したのではないかという疑いがある

これについては行政裁判の原告K前市議が議会で
「これがなければ、M氏の家が建てられないじゃないか!」
というHR市長の発言を聞いており、裁判の証言においてもそのように発言している
一方HR市長の方はまるっきりそのような発言をしたことは否定している

今日のテーマはこのことではなくて、この道路の幅のこと
市から提案された道路の幅が、なんと8.02メートルという不自然に広いものだった
接道義務を果たすだけなら、その道路は6メートル(ないし4メートル)の道幅で良いのだが
それを大きく上回る数字となっている
この奇妙に大きな幅について、なぜそれだけの幅が必要だったのかについて一つの仮説が想像される
それは税金に関すること

市庁舎建築用地内にあるM氏の土地家屋は、移転補償対象となり多額の移転保証費が市から支払われることになった
ところが、その額が極めて大きく譲渡所得から5000万円控除されても、課税対象となる金額が存在した(土地収用法に準ずる)
まずはこの事実を抑えておいて、次に市道3号線の話に移る
M氏の庁舎建設用地内にある土地家屋は、新たに8.02メートルの道路を作った場合にもその道上にあり移転補償の対象になる
(もう少し幅が狭い道路の場合でもその土地家屋は該当する)
この道路を作る時に使われる法律が公拡法(公有地の拡大の推進に関する法律)で、この場合にも課税控除の措置が発生する
つまり該当するM氏の土地家屋は、道路が設置されれば土地収用法と公拡法の2つの法律により譲渡所得から控除を得られることになる
ところが、8.02メートル以内(例えば6メートル)だと公拡法の適用できる面積が狭く、控除の金額も大して大きくないので、
最初の土地収用法での譲渡所得から5000万円差し引いても課税対象は残ってしまう
ところが、これを8.02メートルとして道路を作った場合、うまい具合に2つの法律に配分できて、一つ一つが控除額以上にならず節税が可能になる
それでわざわざ8.02メートルという不可思議な数字の道路の設置が提案されたのではないか
というのがよく考えたら思いついたこと(自分は専門家が思いついたことを聞いた)

このあたりの処理はかなり専門的な知識を要するが、M氏の職業はこの手の取引に長く携わってきており
もしかしたら市の職員以上の知識が存在したとも考えられる

このM氏は前市議のK氏が一般質問で、行政裁判のきっかけとなる質問をした時(2016年3月)
その内容は、庁舎建設用地と離れたところ物件をなぜ新たに調査したのかとか
常識的に離れたそのような場所は移転補償に該当しないのが普通なのに、
なぜ市は移転保証にあたると判断したのか、、と言う内容だったと記憶しているが
この質問があったその夜、前市議のK氏はなんとM氏から突然電話を受けた
「なぜそんな質問をしたのか!」
少しばかり怒りを込めた、批判的な内容だったのだそうだ
(こんなのは常識外だ!言い返したそうだが)
この話はその当時K氏から話を聞いて記憶に残っている

一般的に表に出ていないことでも、こうしたことが(税金対策)想像されたり
こうした事実(夜中の電話)が存在した事実は、やっぱりすんなり市の答弁を
鵜呑みにはできないされても仕方ないだろう

ということで新城市以外の人には関係のない、市内の人でも関係のないような話
備忘録として忘れないうちにおせっかいながら、、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まとまらない話(心にうつりゆくよしなしごと)

2018年10月12日 08時21分24秒 | あれこれ考えること

 調子の悪い日はあるものだ
昨日の会議の自分はちょっと反省が必要
本筋と関係ないような話を続けたり、否定的な話をしたりで正直なところどこかイライラしていた
それが調子のせいなのか、それとも会議の流れが気に入らないのか、まだ他の理由があるかもしれないが
とにかく昨日は夜中のラブレターみたいな勢いだけの話っぷりで
少しばかり恥ずかしい、、会議参加者に謝らなくてはいけないかもしれない

(相変わらず)なんの話をしているのだ?
となるところだが、会議はある意味民主主義に関する話で、そのあるべき姿とか参加の仕方
システムの問題を専門家ではない市民の立場で現実的な方法を考えようとするものだった

時間をおいて振り返ってみると、社会的存在である市民の政治参加はそもそもどの程度が現実的であったり、
大半を占めるであろう「大衆」の態度やその判断が果たして真に正しいものか、、、といった問題が
最近読んでいる本に影響されて自分の頭の中で整理されず、混乱したままで会議に臨んだためにかもしれない

話は変わってアメリカのテイラー・スウィフトさんが共和党の候補ではなく、民主党の候補者を支持する旨を
公にしてアメリカ国内に影響を与えているニュースが伝えられているのが、ここで気になったのは
「有権者登録」ということば
アメリカの選挙システムは全然知らないが、日本のように18歳を超えたら無条件に選挙できるのではないらしい
そもそも選挙人名簿というものがなくて、それを作成するために「有権者登録」をし、そこに登録した人だけが
選挙ができるらしい(らしい、らしいで話を進めるのは情けないが)
選挙に参加する権利はある、でも実際に選挙の権利を行使するためには人はひと手間かけなくてはならない
この流れが、昨日の問題に微妙につながっている

結局は自分たちの生活に関わってくること
その意味で政治(市政)には関心を持つべき(持って当たり前)という考え方がある
一方、直接自分の身に関わることなら関心は持てるが、そうでないものにはどうしても無関心になってしまう現実もある
自分に関係ないようなことでも、いつかは回り回って自分に関係することになるが、これには想像力が必要で
みんながみんなすぐに納得できるものではない

「大衆」という概念があって、オルテガのいうものとハンナ・アーレントのいうそれは若干の違いがあるようだ
オルテガはある組織(利益団体)に属していなくても、また政治知識・技術がなくても、自分たちの意見は正しいと
根拠なく言い続ける存在があり、それを大衆と名付け、その声が大きくなることを「大衆の反逆」で表している
ハンナ・アーレントは利益団体に属していなくても、被選挙人が自分たちの意見を代表していると考える
少しのんびりした(無気力な)存在を大衆としている
そのどちらも納得できるところだが、いざ政治とか市政の現場に当てはめると問題は複雑になり
自分の頭では「そもそも民主主義は、、、」と言う問題まで立ち返らなくてはならなくなってしまう

西部邁さんとかとか佐伯啓思さんとかの知識人が全面的に民主主義を良きものとしていないのは
最初は何を言ってるんだ、、と思ったが、いろいろ考えてみると、さもありなんと言う面も出てくる

人は作業や知識を分業することによって効率的な社会を作り上げ、とりあえず地球上の主みたいな存在を確保している
無駄なことは誰かにお任せして、自分のなすことは多分他の誰かのためになっていて、、それでうまく廻っている
これは言葉にしなくても多分それとなく感じていること
この誰かにお任せする分野に「間接民主主義」の肝である議員さん(国会・市会)・首長が存在する

現在日本では選挙権が当たり前になっており、各人は「自分には適切に人を選ぶ能力がある」と感じていなくても
無邪気に多くの人の判断することは間違いではない、、と感じているかもしれない
多くの人間の判断が間違っているかもしれない、、間違う可能性があるかもしれない、、
これは最近のポピュリズムとか衆愚政治につながるものだし、ドイツ人の深く反省するところ

大衆が(市民が)正しい判断をしうるか?
そもそも現行の選挙システムは、結局は自分の生活に直結するある種の利権団体と
想像上のあるべき姿を追い求める選挙権だけが存在する小市民
誰かがうまくやっていてくれてるはずと考え気味な人たち
大事なのは今の自分の生活(今だけ・自分だけ・お金だけ)を優先するひとたち(悪い意味ではなくて人はそんなもんだと思う)
などから成り立つ
その中で、みんなが人は社会的な存在としてこうあるべき、、、となるのは、否定しようがないが
それでもどこか引っかかってしまう

結局のところ全世界で良きものとされる民主主義は不完全なシステムで、その時々にチェックをしたり
修正を加えたり、各人の意識の共有化を図ったりしていかないと、すぐにだめになってしまうようだ
今年のノーベル賞の受賞者、本庶佑氏が「教科書に書いてあることを信じない」と述べたように
教科書には無条件に民主主義は良きものとしていて、人は社会的存在としての個人にならねばならないとするのは
どうも、そのところが引っかかる

いつものようにまとまらない話
どの時代にも、どの世界にもズル(犯罪)して生きようとする人たちが存在し
他の生物においてもこのような傾向が見られるのは、、、、
その種の生きのびる確率を上げるためなのかもしれないが(人の世界もそう?)これは理解の度合いを超えている
ただ、不思議だな、、とだけ感じることにしておこう






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一人ぼっちとダブル(ニューキャッスル・アライアンス会議の会場にて)

2018年10月09日 08時21分20秒 | あれこれ考えること

東京や京都なら珍しくもなんともないかもしれないが
愛知県のなんの特徴もない地方都市(新城)に100人を超える外国人が一気に集まって
この地区の空気を吸い、自国では感じられない臭いを感じ、静かなのか賑やか(祭りの最中だったので)なのか
わからない音を耳にして、外国人にとっては想像してきたことと違った思いを持つようになった(だろう)と思われる
ニューキャッスル・アライアンス会議in新城

その6日めの行事(ディスカッション4)を覗きに行った
何かのためにとか、次に活かそうとか言うのではなく単なる好奇心からで
普段当たり前のように感じている思考方法とか進め方が、他の国ではどんなだろうか
そんなことが知りたかった

もしかしたらニューキャッスル・アライアンス会議の肝となるかもしれないディスカッションだが
当事者・関係者以外の人はあまり多くなかった
当たり前といえば当たり前かもしれない、その会議に部外者は参加できるわけでもなく
話されている内容も最初とか纏めの段階では同時通訳で内容を把握できるが
肝心の議論の場面(各テーブルに分かれた)では何が話されているかわからなかった

会場には、以前市が主催した何かの会議でテーブルを一緒にしたことのある市の職員(議会で答弁するポジション)の方がいた
「公務ですか?」
「いやいや、単なる興味から」
なるほど服装はスタッフのそれではなくネームプレートもつけていない
とても気さくな方で、それぞれ今までの感想を話しながら会場に向かった

ディスカッション4はテーマがビジネス
それまでに、過去のアライアンス会議の振り返り(1)・観光(2)・教育(3)が行われており
この日が最後の締めとなる催し
会場は予め10個ほどの丸い机が準備されており、その周りに各参加国のメンバーが座って
冒頭の挨拶で紹介されたビジネスのテーマに沿って各人が討論を行い
30分ほど経過した段階で纏めた意見を発表するというもの
(よくあるグループワークみたいだがKJ法ではない)

各テーブルで話されている言語は英語
見物客である自分ら(自分と職員の方)の近くは日本語の話せるひとが集まってところどころ
聞き取ることができたが、現実は話している様子を見ているだけ

ここでとても気になって仕方ない状況が一つあった
10人ほど座れるテーブル、ほとんどは人が溢れて口角泡を飛ばすというような状況なのに
一つのテーブルだけポツンと一人しかいない
彼はそこに座って寝ているのかパンフレットを見ているかわからない
そのうち誰かが寄ってくるのだろうか、、、と心配になったがどうやらその気配はなさそう
そうなると現場で何が話されているのかというよりも彼のことのほうが気になって仕方ない

彼はこの時間辛く退屈で面白くないと感じてはいないだろうか
地元の人間としてのホスピタリティとしてこのままでいいんだろうか、、
そんなことを思っている間に時間はどんどん過ぎていく

このままこの時間を過ごさせることは間違いだ、、できることはないかと思ったが
メンバーではない自分ら観客はどうすることもできない
でも、とうとうにしびれを切らして隣に座っている市の職員の方に「行こう!」と声をかけ
近くにいた運営スタッフに、一人でいる彼の近くに行ける人はいないか探してもらうように二人で声がけした
そしておせっかにもそれだけでなく、おそらく会議の参加メンバーとも思われる若い男性(大学生くらい)二人に
あの一人でいるところへ行って話し相手になってくれないか、、と依頼をした
折角の機会だから、、思い切って、、
彼ら若者としては何がなんだかわからないだろうが、自分らの勢いに負けて(?)
そのテーブルに移動をして話し相手(?)になることになった

と言っても何を話していいかわからない
ひとりぼっちでいることは気難しい人なんだろうか、、
若者たちも最初の言葉が出てこない
彼の話相手は若者二人と行きがかり上、市の職員の方そして自分の4人、これが会のルールに則っていたかは知らないが
とにかく、彼につまらない時間だったとは思わせたくない(というのが自分の気持ちだった)

でも結果的にはこの一人でいた方は気さくな方だった
テーマのビジネスとの話をできたわけではなかったが、ビールの話とか、自動車産業の話(雇用)とか
若者は何を学んでいるのかとか、英語は世界語になっているがドイツ語はそこまでになっていないとか
全部が全部理解したわけではなかっただろうが、なんとか会話しようとする気持ちはお互いに通じたような
そんな空気が流れて、会話が終わったとき彼は自国から持参したちょっとしたアイテム(栓抜き)を
若者にプレゼントした

これで新城に来た今回の印象は、少なくとも悪くはなかっただろうな、、と思えるようで
少しばかりホッとした

ところで公務ではなく自発的に私服で来られた職員の方、自分はボケーと同時通訳の話を聞いていただけだったが
彼はこまめにメモを手帳にとっていた
きっと彼は何かに活かすんだろうな、、そんなことが想像できて、その真面目さに救われるような思いをもった

気になった会議の進め方や発表の仕方は、無駄のないテキパキとしたもので
何が決まりその担当を誰にするか、、そういったことが、有無を言わさず決まっていった
流石に意欲のある方々の集合で理解が早いし、責任感も強い、日本のように周りの空気を読みながら
決断するというのはない感じで、、短い時間で物事が進んでいくのは納得できる

このディスカッションで決まったことは案外定番的なことで、
今後これを如何に実践していくかが問われることになるのは、どのような会議でも見られること
都市の大きさや文化の違い、置かれている状況の違いを乗り越えて、さてどうするか、、、

この日、職員の方と自分の座っている隣に日本語の堪能な外国人風の女性がいた
聞けばお母さんが日本人だとのこと
「最近、ハーフじゃなくて、ダブルと言う言い方をするようになっているみたいですね」
(半分半分じゃなくて、各人種の良いとこどりが二倍の)
「わたしもその言い方広めたとと思っています」

最近日本では勝手に民族で区別して、根拠のない優劣を決めつけるような風潮が見られる
かつてナチスではユダヤ人の定義(ニュルンベルク法)で無理やり人々を区別して
あのとんでもないことをしでかしてしまうことになったが
それを思えば日本でも単なる民族で優劣とか善悪を簡単に決める行為は良くないもとの想像がつきそうなものだが

今後もっと増えるだろうと思われる「良いとこどりのダブル」
ダブルの概念が、もっと広がるといいな、、









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脚がつった!

2018年10月08日 08時19分24秒 | 徒然なるままに

寝ていて脚がつった
最近ちょくちょくある
あのとんでもなく痛く、何秒間は我慢するしかないふくらはぎではなくて
最近機嫌が悪いのは左脚の太ももの裏
幸いふくらはぎのように痛くてたまらないということはないし、その時間も短い

物事には理由があるが、これはすぐに想像がつく
7月以来の腰痛と股関節のせいだ
最近は歩く気になれるほど回復しているが、それでも少し歩いていると左脚の股関節が
疲労のたまり場みたいになったり、ふくらはぎがピンと突っ張る感じがしている

だからこのようなことも、またか、、と思うだけ
できるならば早く普段のバランスの良い歩き方に戻らないかな
今はどうもバランスの悪いあるき方で、左脚の膝は伸びたまま
足音を聴けばきっとトン・バタン・トン・バタン、、、みたいな感じ

残念ながらこれ以上良くならないとしたら、慣れるしかない
できるだけ、元に戻ればいいのだけれど、、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化の違いと少し良い話題(ニューカッスル・アライアンス会議に関しての)

2018年10月07日 09時07分04秒 | 徒然なるままに

先日のニューキャッスル・アライアンス会議関連の続き
セレモニーの中で気がついたことは他にもあった

プレゼンタイムが終わると会場から拍手が起きる
日本なら壇上で礼をして、拍手に何らかの反応を見せて
それから元いた席に戻るのが普通なのだが、この日確か2つの都市で
プレゼンが終わると拍手が起きていてもそれに反応(お辞儀)することなく
スタコラと席に向かって歩いていった

メリハリもなく、マイペースで一向に悪気がない様子で、なにか変だな、、
というのが正直な気持ち
これらがお国柄の違いなんだろうか

そういえば、例の「のど飴事件」に似たような事柄で
イギリスではメイ首相が咳き込んでいた時に
のど飴をわたした人がいて壇上でメイ首相は「もらったとよ!」と掲げて
口の中に放り込んで拍手喝采のシーンが動画で紹介されていたが
これなんかは、はっきり文化の違いを感じてしまう
日本は、そういうのは(人前でくちゃくちゃするのは)「はしたない」と感じてしまわないか
理屈じゃなく、なんか変だな、、と自然に湧き上がってしまう
もっとも、自分よりももっと若い人たちはなんとも思わないかもしれない

人前で足を組むというのも、どうも抵抗感を感じてしまう
オバマさんが安倍さんと対談の時、オバマさんは当たり前のように足を組んで
安倍さんとの対話を行っていた
人と話す時の姿勢としてなんか失礼に感じてしまったのは(古い)日本人の感覚のせいだろうか

とにかくお国変わればいろんな捉え方や風習があるということで
これからは「知って、慣れる」ことが必要なんだろうな、、つくづく思う

都市名が一緒というだけでの、ゆるいつながりのニューキャッスル・アライアンス会議
元の「新城サミット」は少しお気楽な期待をしたことがあった
その頃(サミットの頃)は少年サッカーのコーチをしていたので
いつか世界中の「新城」という名の都市の子どもたちとサッカーの試合ができたらいいな
などと思ったものだった

ところで、ニューキャッスル・アポン・タインには
ニューキャッスル・ユナイテッドというプレミアリーグに所属するサッカーチームがある
そのチームには今年から武藤嘉紀が加入して、つい先日のマンチェター・ユナイテッドとの試合で
見事な反転からのシュートを決めている
この話題は、新城に来ているニューキャッスル・アポン・タインのメンバーは嬉しいだろうし
タイムリーだからお別れの式典にはなにか一言出るかもしれない
(でも新城のご年配の方々はサッカーのことはご存じない、、、だろうな)

武藤の得点シーンの動画
武藤嘉紀 ゴール ハイライト マンチェスター ユナイテッド VS ニューカッスル 06/10/2018 HD


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルックナー8番の初稿版と申請書類

2018年10月06日 18時36分02秒 | 音楽

「芸術の秋」のせいではなく、エアコンのない二階でも無理せずに音楽が
聴けるようになったので、最近レコードやCDをよく聴いている
今日取り上げたのは

シモーネ・ヤング指揮のブルックナーの交響曲8番の初稿版

ずっと前に手に入れていたが、手をつけずにいた
聞き流したり、何も感じずに時がすぎるのがもったいないので
気合がノッてきてその時がくるまで取っておいた

自分が指揮する能力があったなら、この交響曲の第3楽章をやってみたい
25分くらいの曲だが徐々に沈潜していき忘我に至るようで
大音量のクライマックスは生理的にとても心地よい

ところで、このCDは版の多いブルックナーの初稿版で、普段演奏会に使われるのとは大きく異なっている
だから当然聴いた印象も異なる
普段の演奏会の版(ハース版・ノヴァーク版)は起承転結が明確で見通しも比較的スッキリして
最後の最後で全楽章のテーマが一同に揃って奏される力技も後期ロマン派の到達点みたいなところがあるが
この初稿版はもっと素朴な印象

この初稿版を聴くといつも連想するのが、補助金の申請書類の元原稿とブラッシュアップされた原稿との違いのこと
気合が入って熱っぽく思い込みの多い最初の申請書類が、第三者の目からアドバイスを受けて筋道が整理され
とてもスッキリしてわかりやすくなっていく様が初稿版からの変遷によく似ている気がしてならない

聞き慣れた耳には劇的な現在使われている版のほうがまとまりが良く感じるが
ブルックナーが考えたこと、求めたものはこんなに劇的でスッキリしたものだったのかは
少し違うかもしれないとも思う

初稿版にはところどころブルックナーの故郷のリンツ郊外の風景を思い起こさせるところがある
だが通常の版は濃厚な音響からなる音の構築物
どちらがいいかは、その時時の気分で違ってきそう
でもこの初稿版はほとんど演奏会にのぼらない

どうやら東京の方ではこの初稿版により演奏会があるらしいけど、
この地方ではそういう話は耳にしない
どこか中部地方でやってくれないかな、、
(愛知祝祭管弦楽団が「ニーベルングの指環」が済んだら取り上げてくれないかな、、、と思ったりする)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「心にうつりゆくよしなしごと」(ニューキャッスル・アライアンス会議)

2018年10月05日 08時48分41秒 | 徒然なるままに

「新しい城」という市の名前の世界の都市が集うニューキャッスル・アライアンス会議
二年に一度開かれるが、今年はこの企画の言い出しっぺ(以前は新城サミット)の
我が新城市で開かれることになった
この事業には賛否両論がある
現実的な効果が見えないとか、関連する人たちは熱をもって取り組めても市全体に関わっていないとか、、
でもどこかワクワクするような気持ちになるのは事実

昨日、新城文化会館で開かれた市民歓迎セレモニーにでかけた
午後は大事な会議の傍聴があったので午前の部だけで切り上げた
セレモニーを見ていると、いつものように本質と関係のないことばかりが頭に浮かぶ

形通りの挨拶が終わると参加国の紹介・プレゼンテーションが続く
頭をよぎったコントロールできない勝手な連想は
やっぱり英語がしゃべれないとアカンな(英語圏の人じゃなくても英語でプレゼンしている)
もっとちゃんと身につけておけばよかった
ちょいと悔しくて会場で渡された同時通訳のチャンネルを切り替えて、素の英語を聞いたりした
大体のニュアンスは分かるが何しろわからない単語が多すぎる
英語圏じゃない人の英語のほうが多少わかりやすいかな、、、

勝手な連想は、登場人物の体格について
最初のカナダの人は、とにかく太っていた(4人のうち3人が)
その太り方は、少し異常
続いて登場したデンマーク、ドイツ、スイス、チェコなどイメージ的に体格の良い国
これらの国は確かに背が高いし太い
でもあの太り方とは違う
食べものが違うのか、、

「新しい城」という名前というものの、ヨーロッパの参加国の都市は「新しい」ことではなくて
「古い」歴史を語り、それを誇りにしていた
「新しい城」と名付けられてから何百年も経っているからだが、
都市の財産は案外「歴史」にあるのかもしれないと思ったりする
アメリカの都市は、アメリカ自体がヨーロッパと比較して新しいので「歴史」を誇ることがない
力に溢れた、今を楽しむ様子が(物質文明的な)要素がプレゼンからは感じられた

英語で新城はニューキャッスル
でも参加都市の名はその後に、「アポン・タイン」「アンダー・ライム」「インディアナ」「ペンシルベニア」
などの言葉が続く
これらの都市は名字と名前のようになっているのかな、、と気になった(調べればいいけど面倒で)

ほんと本質と関係ないことだが、面白かったのはアメリカのニューキャッスル・インディアナのプレゼンの時
近くにある都市を挙げたが、その近くというのが車で2時間とか3時間かかるということ
日本では2時間や3時間の都市を近くとは言わない
広い国土のなかで当たり前になっているスケール感の違い
これには少しばかり呆れた

最後に少しは真面目たことを、、、
物事は他と比較して気づくことが多い
英語の重要さ、歴史(文化)のもつ地方の可能性、楽観的に考えるべきだということなどは
昨日のセレモニーから自身が感じたこと
外国と触れ合うことの少ない地方都市では、こうした気づきの機会が少ない
この機会となるのが一週間だけのイベントでお仕舞いとするのはもったいない
お金をかけ継続するというのではなく、もっと普段の生活で外国を感じるような機会があれば
とも思ったりする

しかし、勝手に頭に浮かぶ事(心にうつるよしないごと)は、、、しょうもない

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本の「のど飴事件」から連想したこと

2018年10月03日 09時06分41秒 | あれこれ考えること

熊本の女性市議が質問の際にのど飴を舐めていたので
そこにいた議員間から非難の声が上がり(議会の品位を貶める)
大切な議会最終日の採決も、この対応について8時間も休憩になったそうだ

イギリスを始め世界のニュースで冷やかし、笑いものになったようだが
この熊本市議会の現状をよく知らないのですぐさま簡単に感想は述べられないが
問題の女性議員は以前に生後数ヶ月の赤ちゃんを議場に連れてきて
その際も問題とされた経過がある

その時も世界標準(ニュージーランドとか)と比較してどうなんだ、、との意見があったが
現実的な面を考えると(赤ちゃんが泣きだした時の対応とか)まだまだ解決すべき法的な面や
各議員の気持ちの持ち方があり、おおらかに受け入れるのは問題があったかもしれない
でもそんなことはわかりきっていたので、彼女は問題提起としてその行動に至ったのかもしれない

しかし、この経過があったものだから今回ののど飴に対しては、前回少しばかり世間に痛めつけられた感のある
議員さんたちは仕返しの機会到来と判断したのかもしれない
と言っても詳しい彼の地の議会の状況はわからないので、熊本の話はここまで

世間にはよく似たようなことがあるものだとは、少し長生きをすると感じることで
恥ずかしながら自分の住む新城市にもこのような事があった
もっともその行動を主導した議員さんたちは、自分たちには確固たる理由なりがあり
決して感情に振り回されて行ったものではないとするだろうけれど

2年前、新城市議会では「懲罰動議」なるものが突然本会議の真っ最中にだされた
初めて耳にするようなことで最初は何が起きたのかわからなかった
要約すると、共産党の議員がその時、市議会議員の家族の経営する水道工事業者の
市の事業の落札が議員になってから急に増えている事実が中日新聞に掲載され
それで議会内に「政治倫理審査会」がおかれることになったが、その審議継続中の議会で
「市は政治倫理審査会が開かれているにもかかわらず、かの業者に指名入札の権限を与え続け
その結果数件落札している。この時の市の指名入札に関する条件」を質した

その際に、業者自体の経営状況を独自に調べたデータをを元に一般質問の壇上で発言した
これともう一つの件が、議員にあるまじき行為として懲罰を課すに値するとのことで
懲罰委員会が開かれることになった
この懲罰動議を発したのが誰たちで、そこに少しばかりの不自然さが感じられるのはさておき
議会では「個人的な話をしてはいけない」と「議員は兼業をしてはいけない」との決まりの中で
共産議員は「経営状態にまで話をしたこと」「兼業をしていると決めつけたこと」が
議場で反対の意見をいうことのできない当該企業の名誉を傷つけ、それが議員としてあるまじき行為
と判断されて糾弾された

その結果は、議会最終日に議長からお叱りの言葉を聞き、議員も陳謝等の言葉を述べることになった

少しばかりへそ曲がりな自分は、この過程が本当に正しかったのか気になって
何も知らないゆえの独断・思い込みかもしれないが、いろいろ調べた
すると最初の「議会では個人的な話をしていけない」というのは確かに地方自治法の条文のなかにある(地方自治法132条)
でもそれは規律をいう大きな枠組みの中の話で、議案に関係のない個人的な話はしないようにと
釘を刺すもので、議会事務局から懲罰委員会が開かれる前に説明されたなかには
「議事と関係のないところで個人的なことは話してはいけない」と説明がされた
これは国会などで森友学園や加計学園の名が当たり前のように登場し、しかも経営状態まで問題に
されているようなことを思い出すと、法律というのは大きなところから(上から)流れてくるので
市もそうなんだろうなと連想できる
懲罰を受けることになった議員さんの質問が、固有名詞をあげて詳しい内容まで踏み込んだことは
本当にいけないことだったのか、実は議論のうえで必要なことだったのか、、
それはわからないんじゃないか、、というのが自分の思い

もう一つの「兼業している」と決めつけたのはいけないとする件だが
不思議なことに「兼業しているか否か」は裁判所とかが決めることではなくて
実は議員さんたちで決めることになっている(地方自治法127条)
そしてその判断を行う討論はなされていない

結局のところ、議会が懲罰として壇上に立つ議員さんに戒めた言葉のなかには
自分が疑問に思った2つの点が、それとなく気づかれぬように(?)含まれていた
そこには「個人的な情報を挙げねば議論が進まないとは考えられす」
そしてもう一つは「議会は兼業についての会議を行っていない」のことば

一体誰が「個人的なことを挙げねば議論が進まないとは考えられず」と決定したのだろう
対象議員が一般質問していたときは、その質問は必然的であり、妙にぼかす方が不自然とも思ったものだ
そして「兼業については会議をしていない」ならば、ある人は兼業していると解釈し、ある人はしていないとの
解釈もできるので、一方的に問題視するのはどうなのか、果たして懲罰まで行く案件だったのか
今でも疑問に思う

この懲罰委員会に至った経過が、今回の熊本市議の例と被るように思えてならない
この一・二年親ししている弁護士さんによれば懲罰委員会なんてものは、いじめとして使われることが多い、、とのこと
それを聞いて、ついこのことを思い出し納得してしまった
こうした考えが独断と偏見に満ちたものかもしれないが
チコちゃんじゃないがボーッと生きてると、本当はとても大事なことでよく考えないといけないことが
知らないうちに大した検討もされずに粛々と進められていくことに
少し不安を感じないではいられない
でも、正直なところ、細かなところまでチェックしたり文句をいうのは、ちょいと面倒くさい
本当は選ばれた方々が(市議・国会議員)がちゃんとやっててくれればいいのだけれど、、

あまり思い出しても生産的ではないが、ついつい思い出してしまった



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「散り椿」(圧倒的に映像がきれいだった)

2018年10月02日 18時44分54秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

最近、いい映画を見ていない気がしている
ところがテレビのCMを見て行く気になったのが「散り椿」
迫力と緊迫感のある殺陣のシーンが気に入ったのでも
麻生久美子や黒木華がいいなあ、、などと思ったのではなく
(この二人なんとなく好きなんだけど)
そこに映る風景、映像がとてもきれいで情感豊かで
それを見るだけで価値があるに違いないと思った

冒頭の雪の降るシーン
松並木と思しき道、部屋から見える借景画のような庭
城、田舎の川と山、タイトルの散り椿などなど
セリフ以上に雄弁な映像
大きな音の場面がなく、音楽もシンプルにチェロが人の心を描いているかのよう

谷崎潤一郎が陰翳礼讃で取り上げたような昔の日本がそうであったような
光は乏しく仄暗いシーンが全編に渡る
そしてそこに映るひとつひとつの調度、風景の美しいこと

富司純子の役以外の女性が(麻生久美子・黒木華)があまりにも寡黙・従順・忍耐強くて
男の一つの理想かなと思いつつも、正直なところ少しリアリティを欠いた
(最近はドストエフスキーの小説の生命力と意志に溢れたキャラクターの方が好みになっているかも)
でも、最後は隠した思いの丈を叫べばいいのに、、と感情移入するはめになったのだけれど

こうした静かな物語はいい
昔の森田芳光の「それから」も静かな物語だった
衣擦れの音、サイダーのシューという音、奇妙な絶望感に満ちたバスの中の花火のシーン
百合の花の香ががそこかしこに漂うような暗い室内
見ている人の想像力を信用して過度に語らない
少しづつ暗示のような(これみよがしではない)演出

この映画の監督さんは黒澤明の映画のカメラマンを務めた方だそうだ
それで映像が素晴らしいのは納得したが
気になったのはこの映画の撮影場所はどこだったんだろうということ
よくもまあ絶妙なロケ地を探し出してくるもんだ、、とつくづく感心する

ところで、物語は、なかなかいい話だったが予告編の「ただ、愛のためにー」は
男には少しばかり恥ずかしさを覚えてしまうのだけれど、、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする