豊川海軍工廠平和公園に行ってきた
暑さにはめっきり弱く出不精になってきた母が一度は行ってみたい
と言い続けていた場所で、最近過ごしやすくなったので以前からの約束を果たすことにした
1945年8月7日、豊川に空襲があったその日、母は海軍工廠に出かけた
本来ならば休みの番だったそうだが、何かの用事ができてバスででかけた
空爆は工廠に着くや否やすぐさまが始まったのだそうだ
始まると何をするも必死で、まずは防空壕に逃げ込んだ
爆発のすごい音とブルブル震える振動、それに防空壕に土が足首のあたりまで降り掛かってくる
じっとしている不安に耐えきれなくなった母は、思い切ってどこに向かうと知れず防空壕を抜け出した
その時靴は脱げてしまっていたのだそうだ
防空壕から抜け出す時、(横たわった?)誰かの体を踏んだという
助けようにもその時は余裕がなくて必死だった
でもその時の踏んだ感触は忘れられない、、とつらそうに口にする
この日母は何人かの友人を失った
だからその地は母にとって決していい思い出の地ではない
でも何年か前、浅丘ルリ子が主演した「早咲きの花」という映画を見に行った時
海軍工廠の空爆のシーンがあって、それを見た母が一度立ち寄ってみたいというようになっていた
現在は平和公園の海軍工廠の建物は、旧第一火薬庫と旧第三信管置場が見学できるようになっていて
地元のボランティアの方が説明をするようになっている
土塁に囲まれたそれらの厳重に設計・管理された部屋(火薬が湿ってしまわないように、爆発しないように)
それらは機能的であるがゆえになにか非現実の空間のような印象をもたらした
(母が働いてきたのは第二信管置き場で現在は影も形も残っていない)
この非現実的な印象が、一気に現実のものとして感じられ猛烈な怒りを覚えたのが
母が逃げ込んだと思われる防空壕の跡を見たときだ
「防空壕跡」と看板がロープにぶら下がっている
でもそこのどこが安全そうな避難場所だろう
防空壕は名ばかりで、ほんのちょっとだけ掘ってあるだけ、ガイドさんの説明によっても
深さも大したことなく、入り口出口に階段があって、5.6人が腰をかがめて入るくらいだったのだそうだ
そして天蓋があるものや無いものもあるという
何という人命を考慮していない、やっつけの施設なんだろう(冗談じゃない)
そのガイドを聞いていた年配の女性も
これが防空壕の全体?もっと深いところはあるのですか?バカにしてる!信じられない!
の言葉が漏れてくる
この日海軍のお偉いさんは、地下のもっと頑丈で安全なところで身を隠し生き延びひともいたそうだ
悲劇はいつも弱い立場の人のところに降り掛かってくる
どんな大義名分があろうとも実際の被害にあうのはこうした弱い立場の人々
赤紙一枚で戦場に送られ、貧弱な名ばかりの防空壕で我慢せざるを得なくなっている
現在、戦後生まれのお偉いさんが抽象的な危険を煽り、仮に危機的な状況にあるとしても平和裏に解決しようせず、
ただひたすらに自国防衛の名のもとに(他国から見れば危ない兆候と見られるかも知れないのに)軍備を増強している
だがこの人達は、この平和公園で見られた本当の現実を見て何かを感じたのだろうか、、
またネトウヨと言われる人々は、こうした庶民が味わった理不尽な苦労を自分の身に置き換えるという
基本的な想像力を働かせているのだろうか
(彼らの頭の中はロールプレイングゲームのような、実際の痛みや悲しみを体験しない世界で成り立っていないか)
見るのは悲惨すぎて、あえて見る気にはなれない施設のこの豊川海軍工廠跡地
でもアウシュビッツ収容所と同じように、原爆ドームと同じように、また知覧特攻平和公園と同じように
絶対に悲劇を繰り返さないために、忘れやすい人間には、脚を運ぶべき、、と実感した次第
それにしても、あの防空壕、、、言葉が出ない