ずっと前から不思議だと思っていたことがある
地面を走っている車輪は一回転すると円周の距離だけ進むことになる
ところがホイールは一回転してもホイールの円周分進むわけではない
すると、一体このホイールの一周した距離は何を示しているのか
訳が分からなくなって、自分の頭では消化できなくなっていた
この問はどうやらかなり昔から問われていたようで
「アリストテレスの輪」という問題らしい
それを知ったのは最近のことで、自分も同じような問を
自分で見つけたことが嬉しく思えたものだ
自民党の広報誌に
「生きのびたのは強いものではなく、環境にあわせ変化したもので
世界が変化しつつあるなかで、憲法も変わらねばならない」
と独自の進化論を引用したような解説があったが、進化論の学者からは
それは間違った解釈だ、、との指摘があったようだ
進化論については自民党の解釈するような、合目的に進化している
ような教え方をされていたような気がする
その例として、かつて「工業暗化」が挙げられた
イギリスの産業革命時代、ばい煙を排出して街は煤で黒くなっていった
その時増えたのが黒い色をした蛾で、蛾は鳥たちに見つかって食べられないように
黒くなるように進化した、、という解説だったが、それは変だとずっと思っていた
そんなに短期間で進化するものか、、という時間的な問題だけでなく
根本的になにか違っていると感じていた
これはその後、蛾には元から白い蛾と黒い蛾がいて、見つけやすい白い蛾は早く
食べられてしまって、残ったのが黒い蛾なので黒い蛾が多く感じられただけのこと
これはスッキリして、きっとそうだろうと思うようになった
進化は合目的的に進化するか、それとも気まぐれか
何も市井の人間が頭を悩ますことではないが、どうも気になって仕方ない
でも最近は突然変異自体が、生き延びる選択肢を増やすためのような
無自覚な変化(あるいはDNAのコピーミス)と考えられるようになっているようだ
とにかく生き延びるために四方八方の可能性をとりあえず確保しておいて
その中で運よく当てはまったものが、生き延びて、
まるで合目的的に進化したように思える、、それが進化論の考え方らしい
(しっかり勉強したわけではないので自信がないが
木村資生とかドーキンスでは、このようなことを言ってるような印象がある)
アリストテレスの輪も進化論に対する疑問も、内心嬉しかったのは
「自分の頭で変だな!」と感じたことで
残念ながら「何が変だったのか?」までは理解が達していないが
これらの疑問を感じたことは、、少し誇りに思ったりする
そして、今へんてこな疑問が浮かぶ
それは相対性理論のことで、これはどうしようもない正しい数学的な理屈なんだろうが
数学的な意味ではないかもしれないが、
「目の見えない人にとっての相対性理論はどのような意味があるか?」
ということが気になる
光の速さとかを大前提にしている理屈、でも光を感じえない人たちの世界は
この相対性理論をどのように理解するのだろうか、、、
それが気になって仕方ない
その他に、高校の時習った「数学的帰納法はその方法が何故正しいのか?」
も気になる
これらと同様に気になるのが「多数決は正しいか?」
の問で、これは実生活ではかなり怪しい方法のような気がしてならない
結局のところ、わからないことは世の中にいくらでも存在する
何年か前まではウィーンフィルのメンバーは男ばかりだった
女性奏者は入れないのがずっと決まりだった
そのような姿勢にマルタ・アルゲリッチは怒りを覚え
ウィーンフィルとの共演はしないままでいた(らしい)
最近は名古屋でのウィーンフィルのコンサートには女性メンバーがいた
またテレビで見るコンサートシーンも女性奏者は目に入る
仕方なく女性奏者を入れるようになったとき、そのパートは
音色等の大勢に大きく影響しない(?)ハープのようなものに限られていたようだ
時代の流れといえばそれまでだが、そして反発を受けそうだが
「男ばっかりのウィーンフィルの音」というものも
大事なんじゃないかと思ったりする
男と女の感じ方は違う、また筋肉の質も違うから音量も違う
仮に筋力とか体力的なことはカバーできたとしても感じ方、表現したい衝動の中身は
どこか違うのでは、、と思ってしまう
最近女性作家(梓澤要)の「女(おなご)にこそあれ次郎法師」
(大河ドラマ おんな城主 直虎の物語)
を読んでいて、不意にこの作者は女だな、、と感じるところがあった
気配りの細やかさとかだけでない、もっと根本的に違う何かがあって
男とは違う、、と感じた
この感覚は井伊直弼と村山たかの関係をえがいた「姦婦にはあらず」(諸田玲子)
を読んでいいた時も不意に現れたものだ
男と女のどちらが良いというのではなく、明らかに(?)違うものが存在する感じだ
小説だけでなく音楽でもマルタ・アルゲリッチの演奏は女の感じ方をベースにしている
ような気がする
専門的な楽譜の分析的な解釈をしているのだろうけれど、その根本となる彼女の
作品の捉え方が、直感的な(あるいは肉体的な)把握になっているような気がしてならない
それは「女の直感」の言葉がふさわしい気がする
と言っても、これらは自分が「そう感じる」というだけで
具体的な証拠もないのだけれど
まずは何かを感じることから物事は始まるが、その感じる内容、捉え方が違えば
その後の表現は自ずと変わってくると思われる
その意味では、男ばかりのウィーンフィルの音も、今だからこそ聴いてみたい気がする
(男女平等との考えとは別の所の次元で)
もう一つ聴いてみたい音楽がある
ベートーヴェンが「エロイカ」を作曲したときの年齢の奏者ばかりで演奏する「エロイカ」だ
年齢を重ねた大家の演奏ではなく、ベートーヴェンが野心に持ちていた頃のメンタリティを
自らも持っていると思われる若い人たちによる演奏、その共感の度合いは
いろいろ経験をして何でも知っている人たちのそれとは違う
知らないものの強さ、、将来を見据える時間がたっぷりある人たちの感覚
それらは、きっと深くはなくても魅力的な気がする
(またもや気がする、、といった根拠のないものだが)
ということで、単なる思いつきのお話
眼の前を何がが横切った
少しすると再び茶色の1センチに満たない小石のようなものが
飛び跳ねるように移動する
カエルか、、
朝から珍しいものを見た、、と思ったのが
その後も道の行く先でいくつも見られた
カエルは何故、今朝に限って移動する姿を見せるのだろう
田んぼから用水の方に横断するのもあれば
反対に田んぼに向かうのもいる
久しぶりの晴れで、カエルも喜んでいる(なんてことはないか)
気をつけて歩かないとつい踏んづけてしまいそうになる
突然踏んづけられて、何も考える時間もないうちに
いきなり命が終わってしまうとカエルはどんな気がするのだろう
などと思い浮かべた
ウォーキングする前のこと、我が家の庇の下に蜂が巣を作っていたので
殺虫剤を噴霧して、蜂はいきなり死を迎えた
こちら側の都合とは言え、命を奪ったことに少しばかり心に痛みを覚える
仏教に不殺生戒があるのが、わかる気がした
BLACK LIVES MATTER
当たり前のことだ
東京都民の中でも自身で情報を集め、批判的に何かを見ている人と
テレビから流れる(情報というより)露出量に翻弄されて
批判精神もなくそのまま選択の根拠にする人がいるだろう
東京都民ではないので、空気とかはよくわからないが
アメリカ人がトランプさんを選んだ選択を、(日本人が)少しばかり
呆れたように見るのと同様な感覚を(都民以外は)覚えてしまうかもしれない
個人の持つ情報量の差は、想像以上に大きな行動の差となって現れる
だからこそ報道は重要な任務をになっている、、とか
メディアはどうあるべきか、、との話が出てくるが
今日はこのような手に負えない問題ではなく
地元新城市民における情報格差について
チコちゃんに叱られそうなボーッと生きていたのが変わるキッカケになったのが
2015年に新城市で行われた「住民投票」
豪華な庁舎ではなく、身の丈にあった新庁舎への変更を求めた市民の行動は
その後「市議会議員からの提案による住民投票」へと繋がった
ところが、この住民投票の選択の文章が酷かった
今でも怒りをもって思い出すが、市民に問われたのは
選択肢1は「市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し」
選択肢2は「市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し」
本当に思い出すたびに怒りが蘇る
このわかりにくい選択肢は、結果的に後々までその影響を及ぼすことになった
住民投票は現実的には、よりイメージしやすい「身の丈にあった3階建」
対「現計画の5階建」の戦いになり、「身の丈」の方を市民は選んだ
ところが、その後に行われた行政と身の丈派の市民との計画見直しの実務協議では
住民投票の選択肢の抽象的な文章の解釈が大きく影響し、
結果的に身の丈派の市民に不満の残るものになった
今回の問題は市民間の情報格差なので、この経緯に対する不満のことではない
問題は、市民がこれらのことを知っているか、、という点
市民は流石に住民投票が行われたことは知っている
だが、そのあと実務協議が行なわれたことを知っている人はどれだけいるだろう
そしてその実務協議自体の進め方や、そこで出た問題点をどれだけ知っているだろう
この消化不良の感覚は、後の「市長リコール」問題に繋がった
だが市長リコールは、現実的には推進派は全市的なテーマにしたくても
その行動の存在を知らない人が多かったり、その他のデリケートな点により
不発に終わった
それでもこのあたりまでは、まだ知ってる人が少なくないかもしれない
だがこれから先、「庁舎建設用地外の移転保障費返還」について
裁判沙汰になったことはどれだけの人が知っているだろう
「何が問題だったのか?」は市民の税金を使われているにもかかわらず
大して注目されず時間だけが過ぎていった
裁判は、疑いを払拭できない行為であり、市長は125万円を市に支払うように
との最終結審を待たない手続きで落ち着いた
その他、今度は市長には関係ないが、ある市議会議員が(先頭に立って)行った
「地域自治区の交付金事業」で、未払いにもかかわらず領収証を手にして
市から一旦交付金を得ていたことが発覚した
この事業自体は実施自体が怪しまれるものだが、とりあえずそこは追求されず
未払いの金額の領収書を用いて市からのお金を手にしたのは信義則に反するとの判断で
市議等は交付金の返還をする羽目となった
この市議は政治倫理審査会にかけられることになり、
そこで最も重い「議員辞職勧告」を受けることになった
この他、市議会議員関係では、2つの政務活動費の使いみちに問題あり
と一部の議員から声が上がった
一つは、数人で車で乗り合わせて研修場所まで行ったにもかかわらず
個々は公共交通を利用したとして、その差額を懐に入れた疑い
もう一つは、東京で一泊してある場所に視察に出かけたが
それについて報告書がなかったり行き先の名称が間違っていたりしており
その視察自体が政務活動費を使うことに目的があったのではないか
との行政訴訟が行われることになった
二番目の裁判は途中で、対象議員6人が宿泊費を市に返却することで
結果として裁判は終了した
議員間の問題は他にもあるが、それらも何も知らない人に一から伝えるのは
なかなか難しい
市の税金の使いみちについて市民の一部から声が上がった
利用者が予定した数に全く達しない「新城名古屋直行バス」は
三年半の実証実験が終わったが、その成果は無残なものであり
以後は中止した方が良い、、とする要望書を市長と議会に提出している
この要望書を提出した翌日の新聞には「高速バス継続の意向」
との記事が掲載され、全く反対意見である要望書のことは一言も報道されなかった
まして、この要望書に前後して、行政に市民の有志がヒアリングを行っていたこと
は全く知られていない
そして昨日、受付から受理に手続きが代わった住民監査請求
(見積り金額と入札予定額に一致に対する調査依頼
原価償却が終了しているバスに対する支払いの調査と金額の返却)
これらのことは、全く一部の人しか知らない
ここまで並べてみると、おいおい新城市は大丈夫か?
と心配になってくる
ところが、知らない人は(あるいは知ってても関心のない人は)
新城市は何事もなく過ぎていると思うだろう
つまりは余程関心があるひと以外は、市政について、あるいは議会については
何も知らないということだ
それは上から目線からだと、情けない、、となるが、
以前は市議会議員の名前も知らずボーッと生きていた身としては
彼らを責める気にはなれないでいる
でも、それではいかん!と身にしみて実感したのだから
今度は何ができるかと考える(つもり)
それにしても、情報をたくさん知ってる人と(それが偏った情報であれ)
知らない人とは、情報格差の一言では済まされないような
大きな違いを生み出してしまう
面倒くさい話を、我が事のように考えてもらうにはどうしたら良いのか
横着のままだとアカン!ということを、どうすれば実感してもらえるか
できれば痛い目をしないとわからない状態は避けたいと思うが