■古風な笏谷石製石瓦の天守閣
天守閣を登ると共に、土曜日の昼下がりにこの静けさが保たれているというのは嬉しいではないか。
丸岡城。城郭といいますと犬山城や彦根城のように観光地観光地している印象か、大都市の中心部に二条城や大坂城に江戸城と名古屋城と広島城の様な印象があるのですが、こちらは観光地ではあるのですが、観光地観光地しておらず、都市でも無い静けさが嬉しい。
天守台には天守閣と本丸御殿、これを囲むように豊原門と不明門、一段下がり本丸を守るように煙硝櫓と水の手櫓、本丸の東には内堀をにらむ花畑櫓が広がり、東の丸全体は馬場、そして東の丸は土橋を通じて裏門を構成していた。櫓も二層櫓が点々と続いていたもよう。
二の丸は現存していないことが惜しいほどに壮大で、表門からL字型の土橋を通り大手門、その先が二の丸に続き、大手門からにの丸へは御多門という長櫓に設えた門扉を潜るのですが、その潜る際に太陽の方角を仰げば天守閣が山頂に位置するという、構造のようで。
御殿。二条城に見慣れていますと、ふと気づかされた時にはっとするのですが、城郭本丸御殿が現存しているのは二条城くらい、あとは江戸城がかたちをかえて、他には掛川城や名古屋城等が復元している程度で、実は貴重なのです。すると丸岡城の現状は致し方ない。
平時の城郭は行政中枢でありつつ、抑止力を考えた偉容というものを計算に入れた立地です。二の丸は内堀から眺めれば北櫓と丑寅櫓に守られた一見して憮然たる風格に守られていますが、その二の丸御殿は木葺の御殿にふさわしい優美な佇まいと、情景がありまして。
北陸は遠く霊峰白山を借景とした小さな二の丸庭園とが郭に雅を立ち込ませていたという。いまでは石段と石垣に囲まれた佇まいではありますが、雄大な歴史は現存する天守閣とともに想像力をかき立て続けています。一方で、現存している天守閣というのもはなかなか。
独立式望楼型二重三階の天守閣。日本最古の天守閣と考えられていたのですが、近年の研究で寛永5年こと1628年に造営されたと判明していまして、それまでは天正4年こと西暦1576年造営、つまり柴田勝豊の建造の天守閣と考えられていました。その近年というのは。
福井城郭研究所年報研究紀要2019年に、寛永5年こと1628年に造営と結論付けられています。2019年、なんだコロナ前COVID-19時代より前か、と思われるかもしれませんが、つい先日判明した様なものでして、これにより日本最古の天守閣は犬山城となったのです。
腰屋根方式という建築様式が犬山城天守閣と同じものでして、犬山城天守閣は当初は寺院の本堂の様な巨大な櫓の上に増築した事で最も古い歴史と新しい城郭の設計を相持つ方式となっています。そしてこの腰屋根方式から、長らく丸岡城は日本最古と信じられていた。
笏谷石製の石瓦。丸岡城が古く感じられるのは城郭ですが瓦が石瓦の荒々しい様相となっている点が一役買っているのでしょうか、なにしろ光沢が無く敷石を被せた様な荒々しい迫力を醸しています、しかしこれには理由があるといいまして、北陸ゆえの理由という。
天守閣に笏谷石製の石瓦を用いているのは、北陸の酷寒では冬の季節に雨滴が浸透して夜に凍結しますと簡単に罅割れる、もちろんそれならが名古屋城のような銅瓦とすればよいと反論されるかもしれませんが、日本海沿いの丸岡は風も強く、その為の石瓦なのですね。
福井地震。しかしこの方式は寒風や酷寒には強くとも地震には脆弱性を有していたようでして、1948年の福井地震により天守閣は倒壊しています。ただ、建材の大半は再利用可能であり、七割を当時の建材活用により再建し、丸岡城は今もその威容を轟かせています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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天守閣を登ると共に、土曜日の昼下がりにこの静けさが保たれているというのは嬉しいではないか。
丸岡城。城郭といいますと犬山城や彦根城のように観光地観光地している印象か、大都市の中心部に二条城や大坂城に江戸城と名古屋城と広島城の様な印象があるのですが、こちらは観光地ではあるのですが、観光地観光地しておらず、都市でも無い静けさが嬉しい。
天守台には天守閣と本丸御殿、これを囲むように豊原門と不明門、一段下がり本丸を守るように煙硝櫓と水の手櫓、本丸の東には内堀をにらむ花畑櫓が広がり、東の丸全体は馬場、そして東の丸は土橋を通じて裏門を構成していた。櫓も二層櫓が点々と続いていたもよう。
二の丸は現存していないことが惜しいほどに壮大で、表門からL字型の土橋を通り大手門、その先が二の丸に続き、大手門からにの丸へは御多門という長櫓に設えた門扉を潜るのですが、その潜る際に太陽の方角を仰げば天守閣が山頂に位置するという、構造のようで。
御殿。二条城に見慣れていますと、ふと気づかされた時にはっとするのですが、城郭本丸御殿が現存しているのは二条城くらい、あとは江戸城がかたちをかえて、他には掛川城や名古屋城等が復元している程度で、実は貴重なのです。すると丸岡城の現状は致し方ない。
平時の城郭は行政中枢でありつつ、抑止力を考えた偉容というものを計算に入れた立地です。二の丸は内堀から眺めれば北櫓と丑寅櫓に守られた一見して憮然たる風格に守られていますが、その二の丸御殿は木葺の御殿にふさわしい優美な佇まいと、情景がありまして。
北陸は遠く霊峰白山を借景とした小さな二の丸庭園とが郭に雅を立ち込ませていたという。いまでは石段と石垣に囲まれた佇まいではありますが、雄大な歴史は現存する天守閣とともに想像力をかき立て続けています。一方で、現存している天守閣というのもはなかなか。
独立式望楼型二重三階の天守閣。日本最古の天守閣と考えられていたのですが、近年の研究で寛永5年こと1628年に造営されたと判明していまして、それまでは天正4年こと西暦1576年造営、つまり柴田勝豊の建造の天守閣と考えられていました。その近年というのは。
福井城郭研究所年報研究紀要2019年に、寛永5年こと1628年に造営と結論付けられています。2019年、なんだコロナ前COVID-19時代より前か、と思われるかもしれませんが、つい先日判明した様なものでして、これにより日本最古の天守閣は犬山城となったのです。
腰屋根方式という建築様式が犬山城天守閣と同じものでして、犬山城天守閣は当初は寺院の本堂の様な巨大な櫓の上に増築した事で最も古い歴史と新しい城郭の設計を相持つ方式となっています。そしてこの腰屋根方式から、長らく丸岡城は日本最古と信じられていた。
笏谷石製の石瓦。丸岡城が古く感じられるのは城郭ですが瓦が石瓦の荒々しい様相となっている点が一役買っているのでしょうか、なにしろ光沢が無く敷石を被せた様な荒々しい迫力を醸しています、しかしこれには理由があるといいまして、北陸ゆえの理由という。
天守閣に笏谷石製の石瓦を用いているのは、北陸の酷寒では冬の季節に雨滴が浸透して夜に凍結しますと簡単に罅割れる、もちろんそれならが名古屋城のような銅瓦とすればよいと反論されるかもしれませんが、日本海沿いの丸岡は風も強く、その為の石瓦なのですね。
福井地震。しかしこの方式は寒風や酷寒には強くとも地震には脆弱性を有していたようでして、1948年の福井地震により天守閣は倒壊しています。ただ、建材の大半は再利用可能であり、七割を当時の建材活用により再建し、丸岡城は今もその威容を轟かせています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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