イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ライオンに食べられちゃう?!

2008-02-19 | 第三章「無意識の世界」

 先日行った、多摩動物公園。幼い娘たちを連れて、ライオンバスに乗ったことがあるが、今でもライオンバスは人気らしい。

 自分が幼い頃はライオンバスに乗った記憶は無いが、獅子舞が祖父母の家を訪ねて来て、玄関で獅子に、大きな口で頭を食べられそうになった怖かった記憶がある。

 幼いころの記憶が、はっと過ることがあるが、そういった記憶は自分の生命に関係した恐怖体験が結構多いように思う。

 そして、記憶の片隅にある、こうした体験には、過去の時点での自分なりの解釈を伴っている。それを、当時の記憶を中心に、今再解釈をしてみると、意外な生命の豊饒な世界が開けてくることがある。例えば・・・

 4-5歳のころ、露店でベッコ飴を買って、私にお裾分けしてくれた幼馴染には可哀そうなことをしたが、それを貰おうとしたときに、祖母が厳しく制したことがあった。そんな祖母を幼い頃に、よく悪態をついた。

 ただ、今考えると、赤痢など感染症が幅を利かせていた時代なので、祖母としては当然だったのだろう。祖母は沢山子供を産んだが、2人が幼いころに無くなったそうだ。その詳細は今となっては不明だが、厳しく制した何かの想いがあったかもしれない。

 そんな祖母のお陰で、病気にもならず生きながらえることができたのでは、と考えると、あの時のベッコ飴の記憶は、今は亡き祖母の貴重な記憶に変わる。

 話は戻るが獅子舞の記憶ではないが、なまはげなどの風習。「おまえは、実は近くの橋の下で拾われた。」式の話。こうしたものは、いったい何だろう?死を想え(メメント・モリ)の日本版幼児教育なのであろうか?

 縄文時代からなど、かなり古い歴史があるかもしれない。

 年をとって、だんだん世の中が見えてきたとき、タイムカプセルの昔の記憶が、真実を語り始めてくる。

<生命の時2/4>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!