大学生の時に、従兄の影響もあり、「創造の世界」という雑誌をいつも、楽しみに読んでいた時期がある。湯川秀樹と、同志社大学の市川亀久弥教授の対談で、様々な天才をケーススタディし楽しげな議論をしていた。印象の深いところでも、空海、世阿弥、啄木などがある。
創造のプロセスは何だろう?工学的に勉強したいというのが、当時の私であった。その夢はサラリーマン生活の中で、未完のままになってしまっていた。しかし、サラリーマンを辞めた今、工学的なアプローチではないが、同じような勉強をしている自分に気が付く。
人はそれぞれ、自分を生きている。
見方を変えると、人は生き甲斐を見つけ、悔いのない人生を生きようとする存在だと思う。何も天才とか、創造とか大げさに言うまでもなく、ある意味で人は皆、自分を創造的に生きている存在である。
そして、生きる上での核心の一つは、人生の節目で、自分の無意識も総動員して何かを決め、より良く進んでいくプロセスではないかと思う。
今、私は聖パウロの言葉、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。・・・」(コリントの信徒への手紙 6-19)という考え方に心酔している。
この考えを推し進めると、人生の節目で、自分の前に置かれた難問を解決する場合。それは、前例や他人のアドバイスに頼るのではなく、自分自身のうちに回答があると考えることになる。他人は支援はできても、一番問題を知り、自分を生きている本人にとって代わることはできない。
尊厳と謙虚の両輪がある「人の身体は神の神殿」の考え方は、植村高雄先生の「生き甲斐の心理学」でも核心でもある。
<創造の時2/4>
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