昨日は、私の幼いころからカトリック教会で大変お世話になった方の追悼ミサに行った。小学生の3-4年のころからお世話になり、娘の洗礼までお世話になった。一時私が教会を離れていた時も、静かに見守ってくれた。
亡くなる前に、娘と老人ホームを訪れたが、その時の楽しい会話は今でも忘れられない。その時の会話を魂と魂の愛の会話と考えると、胸が熱くなる。話の筋が少しくらいずれていても、そんなことはどうでも良い。
四谷のイグナチオ教会の前の土手は、丁度桜が美しく咲きはじめていた。黄色いレンギョの花もいつものように咲いていた。先日まで寒々と枝を張っている桜が、美しいピンクの花を突然咲かせる、そんな桜の再生のイメージは強烈である。
悲しい中で、自然体で祈ることができたのは桜のせいかもしれない。
人は必ず、様々なものを失う時期を迎え、知力、体力を失い最後には身体の死を迎える。そのような人生で、神を信じ再生を願えるのは感謝以外のなにものでもない。
<愛の方程式4/4>
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