朝の目覚めの時に感じたもの(これをクオリアと呼ぶのだろうか)を今想いだしている。
半分覚醒し、半分寝ているようであり、視覚的な移りゆくいくつかのイメージや音声からくる何かの「感じ」、そして、いくつかの言葉の断片の感じがある。言葉の持つ志向性というのはその中で凄いようだ。そして平安感が広がっていく・・・
自分の中の様々な「感じ」、これは何なんだろう。
高校生の時、発表授業というのがあり、倫理社会で私はルネ・デカルトを取り上げ学友の前で発表した思い出がある。本を一冊読んだだけの発表で、自分では何か物足りなかった。もっといろいろ知りたかったが力が及ばなかった。
全てを疑って、疑いきれない真実として、「我思う、ゆえに我あり」という有名な第一原理をデカルトは述べている。
確かに、今朝の様々な「感じ」は、脳の中のことに過ぎず、生理的な現象と疑えばきりがない。ただ、それを思う主体としての自分があるというのは、真実のようだ。ただそれが何なのか現代の脳科学でも良く判っていないようだ。
この我は、どのようなものか?難問で21世紀の中で糸口が見つかるか。そんな状況のようである。
考えてみれば不思議だ。自然科学を中心として爆発的に発展しているハズの世界に、こんな基本的なことが未知のまま残されているということが。
ただ、学問とは別に、五感と体感を中心に、自分の中にある真実のさまざまな「感じ」を楽しみ、残された人生を豊かにできればと思う。
<感じ1/2>
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