厳しい世の中を生き抜いていくには、感情を大切にするということがある。大切な感情を抑圧したり、八つ当たりしたりすると、現実吟味力は減退しひょっとすると致命的な間違いを犯す。心の健康度を測るロジャースのプロセススケールを思索するとよく分る。
大切な感情を抑圧して能面のようになったり、感情をうまくフォローできず非現実的になったり、こころの奥にある本音と言動がかみ合わなくなったり。強烈な体験をすると、心の防衛機制からこうした状態に陥ることは少なくない。そして、悔いを残す傾向も多くなるのでは。
さて、今3.11のこと、特にその時の感情を思い出している。今年になり、福島原発事故独立検証委員会の報告書を読んだ。自分の経験した感情の意味は何だったのかと考えている。
3.11。大津波の悲惨なニュースに心を痛めたが、やはり福島原発の恐怖は私にとって強烈だった。当時は情報が異常にコントロールされていたが、それでもインターネットを通じて不安な情報もキャッチできた。また、東北の知人から肉声を聴き、リアルな恐怖感も一緒に味わった。
東京も危ないのでは?当時のU.S.の勧告などに神経を尖らし、福島原発からの八王子までの距離を調べたりした。まあ、八王子は比較的安全と当時は考えたが、実際は3月25日に最悪のシナリオが作成され当時の政府首脳に渡されたようだ(報告書によると)。今でも危険性がある4号機の燃料プールの燃料破損などの連鎖から、強制移転を求める地域がなんと170Km以遠にも生じる事態もリアルに考慮されていたのだ(当然東京に住む私らも・・・)。
今冷静に考えてみると、八王子に住む私も、3.11の事故が悪い方向にすすめば、命の問題にまで発展した可能性があった。3.11の恐怖感の意味。それは、他人ごとのような政府の対応と結びつかない。一市民としてできることは限られているが、この感情を大切にしたいものだ。
山あり谷あり 10/10