イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

天国に昇って御先祖様と会話!

2009-02-23 | 第四章「愛とゆるし」

 遺伝子に関する研究の進歩などで、人類の起源や歴史に関する話題は本当に豊かになってきたと思う。

 そんな中、次のようなお話(妄想?)を考えてみました。死後の世界は判らないのですが(余りに良い世界で、娑婆に戻ってくる人はいないという説も?)。

・・・

 天国に昇ってみると、亡くなった父や祖父母が迎えに来てくれました。子供のころや、青春時代にいた愛犬のアキやラムも。

 楽しい時間の後で、ふと見ると名刺を持った男性と女性が列をなしてにこやかに並んで挨拶に来ていました。「私はあなたの3代前の市二です。」。「和歌山から広島に出て来られた市二さんですね。お墓に刻まれて名前だけは・・・」

 初対面なので、波乱に満ちた生涯を話してくれたり、私が生まれるまでの稀有な運命の流れに感動したりした。4、5世代前の方ですら知らなかったのですが、それが32世代前(紫式部の平安時代位でしょうか)となると、祖先の数は数学的に考えると66億人(現在の世界人口)となり、娑婆で暮らした日本人の知人の殆どが同一の祖父母たちであることに気づく。

 「Aさんの件では、お世話になったんですね。同じ私の血筋なんですよ。」

 延々と祖先達と楽しい会話をかわしながら、自分の命の不思議さを実感する。

 ずいぶん時間がたったようであるが、ついに2000世代前の、アフリカからバベルマンデブ海峡で紅海を渡ってアラビアに出立した、祖先に会う。話す言葉も日本語とは似ても似つかない舌打ち言語。しかし、あの世では通訳もなくても話す言葉は判る。厳しい気候の中、友と別れ、150名の集団でネアンデルタール人など、現世人類以外の跋扈する地に命がけで向かう大変さには涙がでた。

 「へえ、貴方の時代では67億人の私たちの血をひくものがいるんですね。ただ、私たちと同じように飢える人も10億人・・・」

・・・

 こんな風に、いろいろ妄想してみると楽しい。副次的な効果で、命の不思議さや掛買いのなさも何となくわかってくる。

*参考:「5万年前」(イーストプレス ニコラス・ウェイド著)、「生き甲斐の心理学」(植村高雄著)

<自己否定 他者否定 4/6>

人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます! 


悲惨さの数値尺度・・・

2009-02-22 | 第四章「愛とゆるし」

 数字というのは、目標設定したりするときに極めて有効である。数値を経営に利用することも当たり前になってきている。最近はやり過ぎと思われることもあるが・・・何となく格好いい(怖いなと最近想う)。

 さて、悲惨さの尺度として、今まで幼いころからよく見たのは、交番の前などにあった、交通事故者数が印象的である。今では、自殺者数も、この雇用情勢から毎月警察庁で発表になると聞いた。身近なところで見られるようにはならないと思うが。

 さて、人の死を数値化することは、それを様々な活動に結びつけ役に立つこともあろうが、自分の場合であるが、何か変だなと感じることが多くなってきた。

 こころの仕組みで、防衛機制というものがある。厳しい現実に対処するための機制で、その中に知性化がある。生々しい死の実感を言い表すより、スマートに数値を述べておしまいにする。使う本人は楽になるが、数値の中で個々人のリアルな死が隠れてしまう側面を持つ。

 自殺者数が年間30,000人で大変だというより、今までの身近な人の個別の死を思いやった方が実感できる。さらに、深く思索することもできる。

 実感できるところから、そして、自分の想いを深く意識化して活動を出発したほうが、長い目でみると良いかもしれない。

 木々が芽吹く日も間近いと信じよう。

<自己否定、他者否定 3/6>

人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます! 


大ボラ吹き!

2009-02-21 | 第四章「愛とゆるし」

 史記を読んでいたら、劉邦の若い頃の逸話があった。

 最下級の役人であり、お金も千銭もないのに、県令の宴会に一万銭の祝儀を持って来たとホラを吹き、上席についていた。そこで県令と親しく話していた観相家の呂公の眼にとまり、呂公は劉邦にほれて娘を嫁にと頼みこんでくる!

 へぇ。という何とも楽しい話だ。

 大ボラ吹き!インターネットで、検索したが、つくば市の公式ホームページに西高野の大ボラ吹きの話などが掲載されていた。これも、何とも楽しくなる。

 酒飲みの劉邦もそうであるが、大ボラ吹きの特徴は、本人が明るい感情の中でホラを吹くというところではないだろうか。倫理道徳に縛られて、どこか後ろめたいところをもって、嘘をいったかな?など暗い感情を抱かない。

 そこが凄いと思うが。大ボラ吹きの相手や周りの人も、どこか大らかでホラを受け入れるのも楽しい。

 何処かの国で、大臣が酩酊して失言した。それを、恥だ、他国から馬鹿にされる・・・などと報道するこの頃であるが、暗い感情だらけの報道はなんともつまらない。こちらも朝から暗くなってしまう。

 クリスマスローズもいつも首を垂れていないで、たまにはホラでも吹いて欲しい。今日は、クリスマスローズに八当たりしてしまった。

<自己否定、他者否定 2/6>

人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます! 


罪悪感の原型!

2009-02-20 | 第四章「愛とゆるし」

 青春期までを過ごした家の裏庭は、ドクダミが繁茂し、大きなヒキガエルや蜥蜴がいたりで、ちょっと気持ちが悪い場所であった。しかし、遊び場としても、顕微鏡や天体望遠鏡をのぞいたりする研究?の場所としても馴れ親しんだ場所であった。

 中学に入ったころであったか、美術の課題があった。

 裏庭には、沢山の蟻がいて、中にはかなり大きな蟻もいた。ふとした思いつきで、画用紙を地面に置き、大きな蟻が這い上がって来たとき、ロウソクのロウをたらし、蟻を生きたままロウずけにし作品を作ろうとした。

 実際にうまくコトが進んだが、蟻の哀れな姿を見て、はっと罪悪感を感じた。結局は、美術の課題は別の作品を提出したが、その時感じた罪悪感は、不思議なほど蟻の姿とともに記憶に固定された。

 聖アウグスティヌスは罪を「神を無視することに至るほどの自己愛」と定義したそうだが、そんな自分に、暗い罪悪感のうねり経験した。

 若い頃、感受性の強いころの自分の罪悪感の記憶はこのようにあるが、今はどうなのだろうか、例えば現代でも世界で67億人以上いる中で、10億人位の人が餓えているといわれている。そんな現実の中で、あまり罪悪感を感じることもなく飽食をしている。

 罪に対する感受性の喪失は、実は一番恐ろしいことかもしれない。罪悪感を感じなければ、「自己を無視することに至るほどの神への愛」など生まれる筈はない。

罪悪感はめぐみの一歩なのかもしれない。

*参考文献:ペトロ文庫 「聖霊」(教皇ヨハネ・パウロ二世)

<自己否定、他者否定 1/6>

人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます! 


意味ある偶然の一致!

2009-02-19 | 第四章「愛とゆるし」

 意味ある偶然の一致とか共時性というのは、意識しだすとますます真実の現象のように見えてくるようである。

 28年勤めた会社を辞めたのは5年前であった。その会社のOBとなったわけであるが、親しくしていた方ともぷっつり合わなくなってしまったが、この一年でふとしたきっかけで、何人にも会った。その会い方も、街でばったりというのが3回もある。

 心の深層の流れは不思議な世界のようだ。あることを志向するときに、知らず知らずこころのある部分に蓋をしてしまうようなことがあるのかもしれない。それがいつの間にか開封されると、つぎつぎと意味ある偶然が飛びこんでくるように思える。

 会社を辞めて、福祉・介護の世界に向かうころは、会社時代の自分に違和感をもっていたようである。それが、時間が経つことで受容されたのか、蓋が開封されたのかもしれない。

 下手な分析はつまらないのでやめにしたいが、この意味ある偶然の一致に気づくときの、なんとも言えない、繊細な神秘的な気分は心地よい。一日が終わって眠りにつくときなど、感謝せずにおられなくなる。

<自己否定、他者肯定 6/6>

人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!