イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

健全な自律性を考えました!(新しい体験 9/10)

2016-06-23 | 第二章「五感と体感」

 この一週間、いろいろな経験をした。還暦を過ぎてここまで忙しいか・・・というような一日もあり、気の合う知人との楽しい四ツ谷・荒木町をのんびり散策をした日(昨日)もあった。

 昨日は、都心からの帰りがけに、西行法師の「西行全歌集」を思わず買ってしまった。西行の有名な歌は知っていたものの2500首あるという歌集を本屋さんで立ち読みしたところ、いくつも気になる歌があったからだ。真善美の美。最近小説を書きながら、美の人生という私にはなじみのなかった世界のことを考えていたこともある。

 その中の一首が、不思議なことに今の自分の生活に必要なことを教えてくれた。

 風をのみ花なき宿は待ち待ちて泉の末をまた掬ぶ(むすぶ)哉

 (花のない私の家は、待ち続けて、夏はまた隣家の泉の流れの末を手に掬って涼をとるよ) 「西行全歌集」岩波文庫 (久保田淳 吉野朋美 行注)より42P抜粋

 新しい体験をする中で、私は時々疑惑・恥辱感が湧きおこることがある。そんな時にどんどん病的な傾向を帯びることもかつてあったが、エリクソンの理論によると意志力・自律性を思い起こせということをU先生より教えていただいた。

 その中で、意志力はなんとなくわかるが、どうも自律性がよく分らなかった。それが、この一首で教えてもらったようだった。過不足ない自然体の対応。それは祈りのなかでの恵みと一体化する。泉の末をまた掬ぶ(むすぶ)哉・・・なかなかである。

新しい体験 9/10

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あの人と何故、ギクシャクするのか?(新しい経験 8/10)

2016-06-20 | 第五章「和解と平和」

 新しい体験も良いものもあれば、嫌だなとおもうようなこともある。特に相性の悪い人と付き合わざるを得なかったり、そうした人間関係で悩む。あるいは、昔は成田離婚といった言葉があったが、良い関係が急転直下悪化してしまうこともある。

 最近全く聞かなかったがマスコミでよく使われた「性格の不一致」・・・(今日は死語を連発かな。)

 こうした時に「生き甲斐の心理学」を学んで、とても現実に役にたった概念がある。それは「愛の原型」である。私もそうだが、人それぞれ独自の愛し愛される深層のパターン(幸福感を得られる)があるが、それが生育史上に起因するというう概念だ。

 まずは、自分が愛されたという経験をいくつか思い抱く。普段こうしたことは考えたことはなかったが大事なことで、あれこれ思い出してみる。私の場合、2-3歳のとき暖かい縁側で母や父と積み木を楽しんだとか、海に落ちたときに叱らないで風呂にいれてもらったとか、そんな心地よい思い出などが大事だ(五感に関係しているとさらに良いとも)。それが始めの一歩だが、さらに自分の愛の原型について、あれこれ哲学したり意味付けたりする。そうすると、自分の愛の原型の名場面の順A,B,C,D・・・がC,A,B,D・・・と変わったりしてくる。このあたりが面白いところで、自分が変わるきっかけになったりする(他者を変える前に自分が変わることを考えた方が現実的なことが多い)。

 自己分析は心理学の時に何より重要とU先生から教えてもらったが、こうした思索の後で、自分にとって大事な人の愛の原型を推定してみると、他者分析は当たらないことが殆どだが、自分と他者の愛の原型が違うという認識に驚いたりする。お互いに大切な関係であれば、その愛の原型が同じであればどれほどよいかと妄想するのも良いかもしれないが、実際は違うのが当たり前。違うことを前提のはじめの小さな一歩に気づくと、少し大きくなった自分を感じることができる(自我統合性)。

 たぶん「性格の不一致」という言葉が死語になったのは、それが何を指しているか、あるいは対処方法があるのかないのか全く分からないからではないかと思う。個々人の愛の原型をお互いに意識し、それを認めてみる(肯定することではない)ことから和解が始まる。

新しい経験 8/10

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絶望感を祖先はどう乗り越えていったのだろうか?(新しい体験 7/10)

2016-06-19 | 第七章「光と復活体」

 何年か前に、曾祖母の50周忌の法事を行った。私が幼いころ瀬戸内海の祖父母の家に行くと。縁側でよく曾祖母が日向ぼっこをしていたのを覚えている。曾祖母については殆ど知ることがなかったが、父が生まれた年に曾祖父が亡くなり曾祖母は父のことをどこか曾祖父の生まれ変わりのように思っていた。そんなことを父が話していたのを覚えている。

 縄文時代の宗教や民俗学を勉強したりしていると、曾祖母の話がとても気になりはじめる。身近にも江戸時代の有名な生まれ変わりの話である、藤蔵・勝五郎の墓所(永林寺、高幡不動尊)があり気にもなっていた。

 そして、私もだんだんあの世?が身近に感じられるようになり、あれこれと死後の世界を思い浮かべてしまう。いろいろ考えるのだが、実際は死んでみなければわからないことなのだろう。でも、考えてしまう。

 私はカトリック信徒なので、その信条はあるが、それでも例えば曾祖父の魂が生まれ変わり父となったり、藤蔵が生まれ変わって隣の村の勝五郎になったりする輪廻(非転生)の思想にはこころが動かされる。今は人生80年とか90年とか言われ、人の死も意外に眼に入らない時代に生きている。しかし、一昔前は平均寿命は50歳台だったし、縄文時代などは30歳くらいとも推定されている。死が身近にあり、そして、縄文時代などはお墓が家の入口や村の広場にあり傍目には死者と同居しているようにも思え、実に死の世界との距離が近い。その中で、生まれる愛する人の魂が、またこの世にやってくるという想い。絶望の淵から見える光。

 実際は、先にも言ったとおり死んでみないとわからないが、この考えをむやみに否定するのもどうかと思う。

 少なくとも、祖先はエリクソンのいうところの最晩年の、「知恵・自我統合性・絶望感」に対する素晴らしい知恵をもっていたように思う。

写真は多摩動物公園のムササビ。昼間は寝ているが、今回訪れたときは、夕方だったので薄目を開けていた。

新しい経験 6/10

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ストレスと「生き甲斐」のふしぎな関係!(新しい体験 5/10)

2016-06-18 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 新しい体験の中には物凄いストレスをうむようなこともある。あーぁ、止せばよかったと後悔したり、逆に怒りを他者にぶつけたりすることも。しかし、そんな時、もぐらたたきのようにストレスと対決するより、意外に重要なことがある。

 私の場合で恐縮だが、ストレスと「生き甲斐」あるいはアイデンティティの関係はものすごくあるように思う(生き甲斐の心理学の理論もそうだが)。問題に振り回される時、自分の柱がどうなっていてブレるか否かが実はストレスに耐えられるか否かを決めることなのだと思う。私はカトリック信徒であったが、40歳代のあるときカトリックの信仰をそれまでと比べ画期的に深めることができた。そして、その後大変な問題に遭遇したが、その信仰でストレスに耐えることができた(心を病まないで)。

 そのあたりを知っているのか否か、私が50歳台で会社を辞めたとき(年賀状などで知らせたこともあり)、それまで疎遠であった知人何人からか心配して声をかけられた、いずれも宗教関係であった。すでに私は宗教という意味でアイデンティティは定まっていたので、その知人には感謝しつつ事情を説明させていただいた。

 因みに、ストレスでこころも不健康になっているときは、判断力が低下しているので重要な決断はできるだけしない方が良いことが多い。こころが穏やかな時に、アイデンティティの統合を図る方がずっとよい(といって、そのときは必要がないのであり難しいことだが。)

 さて、「生き甲斐」に関することは、宗教とか哲学といったこころの深いところ(死の問題を含む)の問題だけではないと思う。「子供や孫の世話」、趣味、よい友達、・・・いろいろある。そういったものを意識化し、人生の糧とするならばストレスへの対応も非常に楽になるようだ。

新しい経験 5/10

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仕事のマンネリズムを克服する!(新しい体験 4/10)

2016-06-17 | 第三章「無意識の世界」

 なんでも一つの道を究めるというのは大変だと思う。しかし4-5年打ち込んでくると私の場合、ある種のノウハウが自分の身体の一部のようになり楽にできるようになる。しかし、それが意外と曲者で次のステップの足かせになったりする。生き甲斐の心理学では経験の一部が自己として分化される現象を注視する。

 例えば車の運転でもそうだ。運転に慣れてくると、良いか悪いかは別に、ある種の動作が無意識にできたりする。その中には理論的に考えると問題がある運転の癖というようなものもでてくる。しかし、例えばプロのドライバーになるために、その癖を直さねばならないという事態が起こらない限り、だらだらと癖を繰り返していく。

 とはいえ、こうした自分の癖に気が付くことは難しい。自分の理想や現実の把握の仕方が無意識的な世界にセットされ意識することが少なくなるからだ。ただ、私の場合を振り返ると、停滞感というかマンネリ感のような感情が湧きおこることが多くなる。

 この感情の意味をエリクソンさんの、「世話・生殖性・停滞感」をヒントとして考えると良いかもしれない。自分の殻に閉じこもっていると観えない癖。それが、他者の世話などをヒントに視点を変えることで、これで良いのかという自分の価値基準・理想の変更が起こりやすくなる。あるいは、自分の性を含めた身体性を哲学することも現状突破の原動力になるかもしれない。動物の脱皮という現象を思索すると、停滞感が意味が分かってくるようにも。

新しい経験 3/10

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