物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

終戦記念日

2008-08-15 10:40:34 | 日記・エッセイ・コラム

何か天皇の大事なラジオ放送があるというので、I 市の今のハローワークのところに放送を聞きにいった。なにかもぐもぐというようなラジオからの天皇の声を頭を垂れて聞いたが、まったく聞き取れなかった。もっとも聞き取れても言葉を知らない幼児だからわからないはずである。

父が夕方会社から帰ってきて戦争に負けたことを知った。軍国少年ではあったけれど、空襲がなくなるなと単純に考えたことだけを覚えているが、空虚感とかは感じるほど年はいっていなかった。それよりも日ごろの空腹の方が問題だったかもしれない。

朝鮮から1945年の2月に帰り、人に貸していた自宅が空くまで知り合いの家に間借りをして生活していたので、4月になって自宅に引越しをして落ち着いた後に、幼稚園に1ヶ月遅れて入り、少し通ったが、空襲等もあり、そのうちに幼稚園も焼夷弾で焼けてしまってなくなった。

だから幼稚園生活は1ヶ月くらい通っただけである。幼稚園に行かなかったことで自分自身としては別に情緒に欠けているとか思ったことはない。いずれにしても小さくても自分では気持ちは子どもではなかった。それで子どもらしさに欠けた子どもであった。

二人の兄がいたから、字とかも知らず知らずに学んだ。兄二人は小学校に入って字の書き方等を母から手取り足取り教えられたが、私の時にはもうそういうことはなかった。腹に回虫をもっていたらしくて貧血で少し歩くと息がぜいぜいといった。その回虫は小学生の2年生か3年生のときにとてもいい回虫の駆除薬を飲んで駆除した後にやっと元気になってきた。

いまとちがって野菜等にも下肥が肥料として使われていたので、戦中戦後の時期には日本人の多くが回虫に悩まされた。全国中みんな貧乏で家もなく、古着を大事に着ていた。

いつだったか、10年以上前だが京都で知り合った中国人の物理学者を松山に招待したことがあったが、そのときにその学者が中国の現状をこぼしたので、いや日本も40年前は無残なものだったですよと慰めた。また10年位したら一挙によくなりますといったが、現に中国の発展はめざましい。

中国も報道の自由等をめぐっていろいろ議論はあるが、いずれはそういうことも昔話となる日が来るのは私の生きている間には実現しないとしても子どもたちが私の年齢になるくらいには実現をしているのではないだろうか。なんでも息の長い視点が必要である。