今晩から北京でオリンピックがはじまるが、私の生活の中にはあまりオリンピックは入ってこない。金メダルを取ろうが取るまいが私にとってはあまり大したことではない。もちろん、これは競技者個人にとっては大変なことである。場合によってはほとんどその人の人生が変わるといってもよい。
世界のある分野の競技においてにしろそこで一番というのはやはりおろそかにはできない。そのまた努力たるや並大抵のものではないことは事実である。いろいろな厳しいトレーニングを経て、また対抗者との闘いを経て、また自分の弱気との闘いを経て、世界で一番となるのだから。
オリンピックの進行とともにまた多いか少ないかはともかくも金メダルを取る人もでてくるだろう。そしてそれを手にしたときにはじめて自分の労苦が報われたと感じることだろう。だが、別にもしメダルをとれなかったからといって自分の人生が無となる訳ではない。その努力したという経験を後の人生に生かせばいいのだ。
話が変わるが、先日プロフェッショナルの条件でアニメ映画監督の宮崎駿が出ていた。彼が自分で絵コンテを描いてアニメの構想を練るというところがとても意外というか目新しかった。そのシーンの一こま一こまがすべて彼の経験したことから来ているという。天才とはすばらしい経験を有する人たちなのだ。
物理の分野にファインマンという天才物理学者がいた。彼はすべて直観なんてものはない。すべて経験からくるといっていたそうだが、すべての経験を生かすことができるのがやはり天才の天才たる由縁なのであろう。
「風の谷のナウシカ」というマンガは私の長男が読めといって貸してくれたマンガだったが、その後の宮崎駿氏の活躍はすばらしい。しかし、そこに至るまでは長い雌伏のときがあった。
いまでは海外でもHayao Miyazakiの名を知らない若者は少ないだろう。だが、いまでも絵コンテを描いて自分でストーリをつくっているのを見ると人間っていうのはなんて地道な活動がもとになっているのだと思い知らされる。
天才というのは努力のできる才能の言い換えかとまで思われてくる。お陰で11時からの英語会話の放送を見ないで宮崎駿氏のドキュメンタリーを終わりまで見てしまった。