「学校は将来的には劇場型か自動車学校型のどちらかになる」といったのは数学者の遠山啓である。
私のM大学での講義はいくらか劇場型である。これは長年勤めていたE大学での講義とはまったく考えを異にしている。
E大学では気持ちとしては自動車学校型の講義をしていた。
自動車学校型の講義は実利的ではあるが、面白いはずがない。もっとも面白くなくても車の免許をとろうとしている者にとっては免許をとるまでの一時的な在籍だから、それほど文句は出ない。
いや、私の講義は文句をいっぱいもらった。ひどい学生には死ねとまでののしられた。もっともこれは直接言葉として言われたわけではなく、授業アンケートにおいてこう書かれていた。
授業中の不真面目な態度を注意したり、私の独特の言い回しで授業で学生に皮肉を言ったりしたのだから、この仕返しは当然ともいえる。
彼らにとってはなぜ学ばなくてはならないのかわからないことを講義で聞くのだから、それも当然だったろう。
学生に少し洞察力があれば、私の講義の重要さはわかっただろうが、そういった洞察力をもった学生はいたとしても少なかった。電気電子工学には量子力学など学ばなくてもいいと教官でさえ思っている人もいたかもしれない。
電磁気学は目に見えず難しいというが、量子力学はそれにもまして抽象的でつかみどころがない。これは初期の私の学生の述懐である。
そうかといって量子力学を朝永の「量子力学 I 」(みすず書房)みたいな風に短い時間内で講義をするわけにはいかない。量子力学を学ぶにはもっと近道をすることができるはずだ。ということで即物的な講義となる。
私自身は原子物理といったいわゆる量子力学の前段階を学んだ後で、さらに量子力学へと進んだ。解析力学のHamiltonの正準方程式も学んでいた。
だが、工学部の学生にはそういうことは知らないで量子力学を学ぶので、Hamiltonianを系の全力学的エネルギーとして定義し、その式でSchr"odinger流の量子化を行う。
すなわち、運動量p_{x}を x での微分演算子に、エネルギーEを時間 t での微分演算子に置き換える。いわゆるSchr"odinger流の量子化である。そうやって、Schr"odinger方程式を導く。後は一見したところ数学の微分方程式の解法のようである。
計算はできるだけ簡単になるように目的に沿うようなアレンジはしたが、学生には面白くない。何か式の計算だけをやっているような印象をもったであろう。
多くの人がどのような量子力学の講義を学生のときに聞いたかは知らないが、私自身の聞いた量子力学の講義もそのようなものであった。
自分ではずいぶんと苦労をして数式演算の部分を簡略化したつもりだが、学生にとっては私の量子力学が、はじめでかつ最後の量子力学だったので、ずいぶんと複雑で面倒との印象をもったらしい。
朝永の「量子力学 II 」(みすず書房)では朝永自身がはしがきで、「この II 巻では物理が数学の陰に隠れたかのようである」といったことを述べている。量子力学の講義はどうしてもこのような印象から逃れることは難しい。