光の二重性について「大学の物理教育」に論文が出ていた。
私たちのいままでの理解では光はあるときは粒子性が現れ、あるときは波動性が現れる。
ところがそうではなくて光を波動に扱っても粒子として扱っても同じ結果が現れるということをCompton効果で示されたのだと思うが、これが腑に落ちない。
というのは光の波動性は古典的には光の回折、干渉、偏光で示されている。これも粒子として光を扱うことで説明できるのだろうか。現代の物理の実験家は光をほとんど粒子として考えている。
私などもどちらかというと光を粒子として考えてきた。ただ、この光の粒子をある場所に見つける確率は確率波による。確率振幅の2乗がある光の粒子を見つける確率を与える。だが、一つ一つの光は粒子であるという描像である。
波動性は確率波によると考えていた。この理解に達したのはハイトラーの「初等量子力学」(共立)によってだった。そして原島の「初等量子力学」(裳華房)でダメ押しをされた。
この描像でいいと長年思ってきたが、いつだったか江沢洋先生がそうではないというようなことを書かれていたので、私の「粒子性と波動性の理解がまだ十分ではないのだな」と思うようになった。
というかそれまでの素粒子の粒子性と波動性の理解が十分できていたと思う意識に隙間風が吹くようになった。
場の理論はもともと波動的であるが、これから粒子性を取り戻すのは「場の量子化」という操作によるという見解を教えてくれたのは私の先生の一人のOさんだった。
これは彼が北京物理夏の学校へのために準備した「素粒子の複合模型」の講義録を私たちに講義してくれたときにそういう見解を述べられたので、「はっ」としたものである。
今度の「大学の物理教育」の論文は「シルヴィアの量子力学」という本に触発されたらしい。
この「シルヴィアの量子力学」はドイツの高校の女子学生が書いたというので、波紋を呼んだ書である。私もその訳書を買ってもっているが、読む暇がない。なかなか高度な書である。
しかし、こんな書を高校生が書いたというのはまさに驚きであった。