昨日は子どもの日であったので、五十崎での河原の凧合戦を見に行った。
夜は眠りながらNHKのドキュメント「50歳からの私」(大竹しのぶ)を見ていたら、インタービューアーのちょっとぶしつけかとも思われる質問があった。
それは「どんな男性が好きですか」というものであった。どのような返事を彼女がするのかと思って聞いていたら、「才能のある人が好きです。金平糖のような」と答えた。才能があるが、ちょっと平均的ではなくて、特異なというか変わっている人という意味であろうか。
そして自分のパートナーだった人は自分と一緒に生活していると丸くなるというか金平糖のとげがなくなるようで、その人が特色がなくなる傾向にあるといった。それは、自分の至らないせいだというように言ったと思う。これはとても印象的な表現であってこの発言がどうしてか頭に残った。
もう一つ劇の稽古の途中でどうも自分の演技に納得できないときは台本を繰り返して読むというところが写し出された。これは言葉ではないが、たぶん撮影している人が意識してとった場面だと思う。
そのときに思ったのだが、台本のその箇所で台本を書いた人とか演出家がどういうことを意味していたかということと俳優である大竹しのぶとの理解というか認識に違いができることがあるのではないかということであった。脚本家とか演出家とそれを演じる俳優の解釈とが違ってもそれはそれでいいのだが、そういうときにどうするのだろうか。
もし、演出家からの指示があれば、それにしたがうしかないかもしれないが、またある場合には俳優と演出家との議論もあるのかもしれない。そして場合によっては演出家自身が自分の見解を変える場合もあるのであろう。もしそうだとすれば、俳優と演出家との間のある種の平等性があることになる。
普通には演出家の意向にしたがって、演技をするのが俳優であろうが、そうでない場合もありうるとはある種の驚きである。しかし、それが総合芸術といわれる演劇の特質かもしれないと思った。