物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

印税2

2013-09-13 13:26:36 | インポート

4年目にしてはじめてゴールドスタイン「古典力学」下(吉岡書店)の印税を昨年の年末にもらった。源泉徴収されているから一人当たり10万円を切った。

それまでその本が売れているのかどうかも知らなかったし、いつになったら印税をくれるかとも聞いたこともなかった。

上巻が出版されたのが2006年6月で下巻は2009年3月に出版されたので、以前にテキストとして採用をしてくれていた、少数の大学でもこの3版をテキストとしてなかなか使ってもらえなかった。

一昨日、市役所から吉岡書店からの印税を市民税・県民税として課税するための資料として申告せよとの知らせが届いた。

これには私は3月に毎年確定申告をしているので、ちょっと不満であったが、それでもよくわからないから確定申告のコピーをもって、新たに申告をする必要がないのではないかと市役所に申し出た。

その異議申し立てが効をそうして申告はしなくていいということになったが、「申告してあった内容がわからなかったからです」というのが市役所の言い分であった。

翻訳書を出すには3人が分担して訳をしたが、その訳を3人で回し読みしてわかりにくいところや硬い表現が容赦なく指摘された。

場合によってはこれではなんだかわからないと他人から指摘された箇所などは原文の意味の取り違えであることに気がついたりしたこともあった。幸いにしてこれは1ヵ所にすぎなかったけれども。

えんえんとしてそういう作業がいつ終わるともなく繰り返される。そしてその訳が完成してもその校正刷ができるとやはり同じことの繰り返しである。それに校正刷は出版社と印刷所の都合で検討の時間も限られてくる。

ということを繰り返して、へとへとになる。だから、文学書の翻訳は知らないが、翻訳が労力に見合ってペイするという感覚は到底もてない。多分その労力は印税の何倍分もであるだろう。

共訳者の方々もこの仕事をアルバイトとして考えている人はいなくて、お金のことには恬淡とした方ばかりであるのは助かった。翻訳はある種の名誉かもしれないが、利益追求の方には引き合わない仕事であろう。

なぜこれほどの労力かというと、今ではlatexのシステムが普及しているので、数式の入力までも翻訳者の仕事となっているからである。

2版を瀬川先生の責任で翻訳をしたときにはまだ原稿用紙に訳文を書いた。式と図は原書のものが訳書にそのまま取り込まれたので、労力はそれでも大変ではあったが、3版のときほどではなかった。


熱の伝わり方

2013-09-13 12:25:08 | インポート

熱は温度の高い方から低い方に流れる。もちろんこれは仕事をしてやらないという条件つきである。

仕事をしてやれば、熱を低い方から高い方へ流すことはできる。「そんなバカなことが!」という人はいまでは誰もいないだろう。

それはエアコンとか冷蔵庫が現在では一般化しているからである。

高校生のときにはじめて物理学を学んで間がないころ、「なぜ熱は温度の高い方から低い方に流れて、低い方から高い方に流れないのですか」と物理の先生に聞いてあきれられたことがあった。

多分その先生にはそんな疑問を持つ奴は度し難い、ひにくれた生徒であっただろう。

そのときにその物理の先生が熱の現象のことを深く知っていたなら、「君のその疑問は熱力学第2法則の一つの表し方になっているのだよ」と教えてくれたのかもしれないが、工科系の出身だったその物理の先生はそういうことを私には教えてはくれなかった。

大学に勤めるようになってから、原島鮮先生の『物性論概説』(裳華房)を読んだらそのことが書いてあった。

子どもころ朝鮮(今の韓国:鎮海Tin-hae)に住んでいたが、自宅は小さく風呂などはなかった。だから、家中そろって近くの銭湯に出かけた。

まだ小さかったから、はじめは小学校の4年生くらいになっていた長兄や2年生だった次兄が負ぶってくれたりした。そのうちに自分でもついて歩いていけるようになった。

風呂に入った時にお湯の熱が体にじんと入ってくる。そのいわば軽く痛いような感覚が私が熱を感じた最初の経験であったろう。

小さい時はいつも祖母がわたしの体や頭を洗ってくれたが、その痛い感覚というほどではないが、ある種の痺れがとけたときに感じるような感覚がお湯の熱が体に入ってくることを意味していた。

最近一日の最低気温がようやく25度を切るようになって、少なくとも朝方に窓を開けると涼しい外気が部屋に入るようになった。

そこで考えたのは、確かに熱は私の体から放出されて冷たい外気の方へと移っているはずだが、感覚としてはむしろ冷たい外気が私の体に入ってくるように感じる。外気の方には認識の主体がなく、人間である私が感じているのだからそのようにしか感じられない。

山で天候が急変したりして、遭難をして低温の外気と強い風によって体温を奪われて低体温症になって亡くなる方がときどきある。

その方などはまさに冷気が体に突き刺さるように感じられるであろう。熱が外気に放出されるプロセスはいつでも同じはずだが、冷たさが体に侵入してくるとしか思えないであろう。

熱の現象の初歩の話を定年前の4-5年間、大学に入学したての一年生に教えた経験がある。

温度の高い物質と温度の低い物質、あわせて二つの物質を接触させておけば、高い方から熱が低い方の物質に流れ、時間が経てば二つの物質が同じ温度になる。

などということを経験則として教えるのだが、そのときに「なぜ反対のことが起こらないのですか」という、若いときに私が疑問に感じたようなことを聞く常識外れの学生には幸いな(?)こととに出会わなかった。