先日のドイツ語のクラスで、日本国憲法9条のドイツ語訳をとりあげてもらった。
そのときに講師のR氏はいう。アメリカの初期の自由とはなにか。
これはヨーロッパで迫害された宗教を信じる自由を意味するという。
現在ではアメリカでも自由をそういう狭い意味には使っていないかもしれないが、本来のアメリカにおける自由とは迫害された清教徒の信教の自由だったというのははじめて知ったことである。
彼はアメリカの憲法には幸福を追求するとはあるが、平和を追求するとはないとか目から鱗が落ちるような話をしてくれた。
R氏は私たちとはバックグラウンドがちがうので、考えとか知識とかがちがっておもしろい。
こういった、私の感心したことを朝食後に妻に話したら、Rさんもいいところがあるねと感心してくれた。
「戦争の放棄」という日本国憲法9条の概念は画期的なものであり、各国の憲法に小規模ながら取り入れられているという。
もちろん、各国とも日本の憲法9条ほどは画期的なものではないが、戦争はない方がいいことはわかっているらしい。だが、なかなか戦争放棄というところまで踏み切ることはできない。
南米のコロンビアだったか同じような戦争放棄を謳った憲法をもつ国がないわけではない。だが、それでも日本国憲法9条の影響力は国際的にも大きい。
日本でも兵器を生産している企業はあり、それなりに利益を得ているらしい。しかし、集団自衛権の認めてもあまり大幅の利益は期待できないだろうとはKさんの予想である。
それよりも戦争をしない国としての日本の国際的な信頼はとても大きいものであり、それを失うことがどれくらい大きな損害を被ることかということを精確に評価することはとても難しい。
これは私たちは日本人であり、日本人でない視点からものを見ることができないからである。
それにしても他国の人から見た日本国憲法9条とその世界的にどのように捉えられているかをおよそではあるが、想像できる必要がある。視野を広く持つ必要がある。
「なぜ戦争もできるという普通の国になりたがるのか」というのは日本の政治家の個人的な事情を除いてはとても理解できない。