物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

武谷三男は原発推進派?

2015-12-23 13:04:02 | 日記
昨日、E 大学生協書籍部から定期購読している雑誌をもらって来た。今回は『岩波新書で「戦後」をよむ』(岩波新書)を雑誌とは別に注文していた。それは1945年から1955年に間に特徴的だった岩波新書の3冊の1冊に武谷三男 編『死の灰』が入っていたからだ。

そのなかに「武谷三男自身は原発推進派なんですね」という成田龍一の発言がある(同書p.15)。これはそのままで何の注釈もないから、武谷三男が普通の電力会社や現政権や自民党の人たちと同じ立場の原発推進派だととらえられかねない発言である。

その発言自身はまちがいだともいえないのだが、やはりここは注釈が必要だろう。武谷は原子力がいつかは人類に必要なときがくるかもしれないとは考えていたと思う。

そう意味では原発推進派といっていかもしれない。しかし、現段階での原発を肯定したことはなかったはずだ。だから成田が『死の灰』から引用した

原子力はまだ人類の味方ではなく、恐ろしい敵なのである。・・・現代はいまだに原水爆時代であって、原子力時代ではない。

つづけて成田はこう言っている。

将来的には原子力を利用することが可能であり、必要である---原子力を人類の敵でなく、人類の味方にしなければならないという認識が、武谷の根底にあります。いまの情勢は原水爆に向いており、「大国の核兵器独占」「科学における機密体制を打破すること」が必要であり、「日本のような被爆国がその主導権をとるべき」という考え方を示します。つまり「核兵器と、原子力の平和利用の間に明確な分離をする」ことが、武谷の主張です。すでに「若手物理学者の多く」が、原子力研究は「一切の否定すべき」ということを主張する中での、武谷の認識です。踏みとどまって考えるべき箇所です。

とある。

加藤哲郎さんが『日本の社会主義』(岩波書店)等で指摘する、武谷は原発を推進したと主張する理由はここにあるのだろう。だが、私が加藤さんの主張に賛成しないのはその読み方がちょっと浅薄なのではないかという点である。このことは来年になるだろうが、「他人からみた武谷三男」という私の論文の続編で論じてみたいことである。

現時点では原発にはどうも未来がないという判断を私はしている。それは武谷が期待したようには、原発から出てくる多量の原子炉廃棄物の無害化処理が技術的にできそうにないということが理由である。大規模な原発ではなくて、原子炉の基礎研究だけを許すことにできなかったかという視点はありうる。だが、資本主義の社会では原発による利潤が安全よりも優先されて、歴史的にそれはできなかったという事実にもとづいている。

武谷には科学技術は正しくとり扱えば、人類の役に立つという強い信念があると思われる。ただ、正しく注意して取り扱うという視点は一般の人にはわかりにくいし、世間での原子力の利用関係の進み具合は利潤追求型であり、人類の害がなくて、利用価値があるまで使わないなどという視点はとられないのが普通である。だから武谷の視点は誤解を招いたのだ。





アクセス数

2015-12-23 12:46:17 | 日記
数年前にこのブログの前身のブログが炎上したことがあった。その時以来できるだけ目立たないようにしているが、月曜日にアクセスが1日189を記録した。こんなに多くのアクセスがあることは有難いことだが、ちょっと心配でもある。

gooのアクセスランキングでも4000番代に入ったことはなかったと思うが、はじめて4000番代を記録した。昨日はすぐに5000番代にもどったらしいので、ほっとしている。

人間というものは不思議なもので、人気がなければなくてがっかりするし、それかといってちょっと身の程もなくアクセス数が多いとかえって心配になったりする。

だいたいにおいて理系の話が多いし、それも初歩の数学の話を数式なしに書くことが多い。それであまり一般の人にはアピールしないだが、それでもときに200人近くのアクセスがあると世の中がひずんでいるのではないかと余計な心配をするという困ったものである。