実家のある I 市に妻と行っていた。次兄が兄嫁と二人で住んでいるのだが、次兄は6月だったかに心臓手術をしてあまり動けない。
それで、障子張りはもっぱら兄嫁と妻と私の仕事となった。東と西側に廊下がある古いタイプの家であるので、全体で 12枚の障子があった。それを3人で張った。
外注すれば一つの障子は3000円かかるとかいうことで36000円の支出を節約したことになる。もっとも夕食には豪勢な仕出し弁当を頂いたので、兄の家はそれほどの節約にはならなかったかもしれない。
ただ、妻はなんでも仕事を楽しそうにするので、一緒にやっていても楽しい。こういう人は少ないと思う。こういう家事とは違うが、26歳のときに博士課程の学生だったときに指導教官の Y さんと研究してその仕事をまとめようとしていたときに Y さんがやはり楽しそうに一緒に仕事をしてくれたことを思い出す。
あれこれの研究中にはアドバイスもその前にあったけれども、計算のフォーマリズムは自分でCGLNと略称された論文に書かれていた方法を自分で勉強した。それは自分でしなければならなかった。このCGLNのNはその後2008年にノべ-ル賞をもらった、南部陽一郎さんである。そしてこのフォーマリズムを理解するためにはG、すなわち、Goldbergerの書いた大部な散乱理論のテクストの一部を自分で読んだ。これを読みなさいなどという指示などはもらわなかったが、これは1967年5月ごろに一生懸命に勉強をした。
式での計算が終わって、数値計算をコンピュータでするようになって、あまり実験データとの一致がよくないことが分かったときにはすぐに、rho中間子の寄与を考慮して見ようと示唆をされた。ベクトル中間子ではベクター結合だけではなく、テンソル結合まで考えなければならなかった。そしてテンソル結合は相互作用に微分を含むのでエネルギー依存性があり、もっと高いエネルギーでは実験データがもしあれば、不一致が大きくなるはずであった。だが、そのときには幸いなときにそのようなより高エネルギーのデータはまだ存在しなかった。
それでちょっと苦しかったが、なんとかほとんど唯一のフリーパラメータをエネルギ―依存にとって、存在した実験データと理論的な断面積の一致をみるようにすることができた。
1968年3月にその論文を主論文としてあと参考論文3の最低条件で学位をもらって、ようやく大学院を規定の3年で終えることができた。もっとも私にはそれ以前に2年以上かかった論文があり、この2年を越えた時期はとても辛い時期であった。これをなんとかしてクリアできたことが私がまがりなりにも研究者として生き残れた理由であろうか。
物わかりがわるい大学院生の私に辛抱してつきあってくれた当時の指導教官であった Y さんには頭が下がる。だが、ものわかりがわるいことも一つの個性として認めてくれたのだと思う。
障子張りの話が変な方向に脱線してしまった。いつものことだが、仕事を一緒にしていて楽しいということから、およそ50年前のほんの1年くらいの短い期間だったが、楽しかった経験を思い出した。